高麗二 — 顕宗から文宗まで高麗 二
1王彬と崔罕の及第
先是,三年,上親試諸道貢舉人,詔賜高麗賓貢進士王彬、崔罕等及第,既授以官,遣還本國。至是,靖等使回,治上表謝曰:「學生王彬、崔罕等入朝習業,蒙恩並賜及第,授將仕郎、守祕書省校書郎,仍放歸本國。竊以當道荐修貢奉,多歷歲年,蓋以上國天高,遐荒海隔,不獲躬趨金闕,面叩玉堦,唯深拱極之誠,莫展來庭之禮。彬、罕等幼從匏繫,嗟混迹於嵎夷;不憚蓬飄,早賓王於天邑。縕袍短褐,玉粒桂薪,堪憂食貧,若為卒歲。皇帝陛下天慈照毓,海量優容,豐其館穀之資,勗以藝文之業。去歲高懸軒鑑,大選魯儒,彬、罕接武澤宮,敢萌心於中鵠;濫巾英域,空有志於羨魚。陛下以其萬里辭家,十年觀國,俾登名於桂籍,仍命秩於芸臺;憫其懷土之心,慰以倚門之望,別垂宸旨,令歸故鄉。玄造曲成,鴻恩莫報,臣不勝感天戴聖之至。」
これより先、三年に、帝はみずから諸道の貢挙人を試験し、詔して高麗の賓貢進士の王彬・崔罕らに及第を賜い、官を授けてから本国へ帰らせた。ここに至って靖らが使行から帰ると、治は表を上げて謝した。「学生の王彬・崔罕らは入朝して学業を修め、恩をこうむってともに及第を賜り、将仕郎・守祕書省校書郎を授けられ、そのうえ本国へ帰らせていただきました。ひそかに思いますに、こちらは重ねて貢奉を修めて幾年もを経ましたが、上国は天のように高く、はるかな辺土は海に隔てられて、みずから金闕に趨って玉階を叩くことができず、ただ北辰をめぐる誠ばかりが深く、朝廷に参る礼をひろげることができませんでした。彬・罕らは幼いころから瓢のようにつながれた身で、嵎夷に跡をまぜていることを嘆き、蓬のように漂うことをいやがらず、早くから天子の都に客として朝しました。ぼろの綿入れと短い麻の衣で、米は玉のよう、薪は桂のような都で貧しさに耐えては、どうして年を終えられましょうか。皇帝陛下は天のような慈しみで照らし育て、海のような度量で寛くお容れになり、館穀の資を豊かにし、芸文の業をもって励ましてくださいました。昨年、明らかな鏡を高く掲げて魯の儒を大いに選ばれたとき、彬・罕は澤宮に続いて進み、あえて的を射ることに心を向け、みだりに英才の場にまじって、むなしく魚をうらやむ志だけを抱いておりました。陛下は、万里のかなたに家を辞し、十年を上国で過ごしたことをお憐れみになって、桂籍に名を登らせ、芸台に官を命じられ、土を懐かしむ心を憐れみ、門に寄りかかって待つ思いを慰めて、別に聖旨を下して故郷に帰らせてくださいました。天のお造りが細やかに成し遂げてくださり、大きな恩に報いるすべもなく、臣は天に感じ聖上を戴く至りに堪えません。」
2張仁銓を許す
又有張仁銓者,進奉使白思柔之孔目吏也,上書獻便宜。思柔意其持國陰事以告,仁銓懼不敢歸。上命靖等領以還國,仍詔治釋仁銓罪。治又上表謝曰:「官告國信使陳靖、劉式至,奉傳聖旨,以當道進奉使從行孔目官張仁銓至闕,輒進便宜,翻懷憂懼,今附使臣帶歸本國者。仁銓嵎宅細民,海門賤吏,獲趨上國,敢貢愚誠,罔思狂瞽之尤,輒奏權宜之事,妄塵旒冕,上黷朝廷。今者,仰奉綸言,釋其罪罟。小人趨利,豈虞僭越之求,聖主寬恩,遠降哀矜之命。其張仁銓者已依詔旨放罪,令掌事如故。」又上言願賜板本九經書,用敦儒教,許之。
また張仁銓という者があり、進奉使の白思柔の孔目の吏であった。書を上げて便宜を献じた。思柔は、彼が国の隠し事を持ち出して告げたのだと思い、仁銓は恐れて帰ることができなかった。帝は靖らに命じて連れて帰国させ、あわせて詔して治に仁銓の罪を解かせた。治はまた表を上げて謝した。「官告国信使の陳靖・劉式が着き、聖旨を奉じて伝えてくれました。こちらの進奉使に従って行った孔目官の張仁銓が、闕に至ってにわかに便宜を差し出し、かえって憂えと恐れを抱いたので、いま使臣に添えて本国に帰させるとのことでした。仁銓は海辺の細民、海門の賤しい吏でありながら、上国に趨ることを得て、あえて愚かな誠をささげ、前後をわきまえぬ過ちを思わずに、ふいに権宜の事を奏して、みだりに旒冕を汚し、上は朝廷を辱めました。いま綸言を仰ぎ奉って、その罪の網を解いてくださいました。小人が利を追うのに、どうして僭越な求めをはかりましたでしょうか。聖主の寛やかな恩が、遠く憐れみの命を下してくださったのです。かの張仁銓は、すでに詔の旨に従って罪を放ち、もとのように事を掌らせております。」また、板本の九経の書を賜って儒教を篤くしたいと申し上げたので、これを許した。
3風に壊れた船
先是,式等復命,治遣使元證衍送之,證衍至安香浦口,值風損船,溺所賷物。詔登州給證衍文據遣還,仍賜治衣段二百疋、銀器二百兩、羊五十口。
これより先、式らが復命するとき、治は使いの元證衍を遣わして送らせたが、證衍は安香浦の口で風に遭って船を損じ、持っていた物を水に落とした。詔して登州で證衍に文書を与えて帰らせ、あわせて治に衣の段二百疋、銀器二百両、羊五十頭を賜った。
4兵を請うたが
五年六月,遣使元郁來乞師,愬以契丹寇境。朝廷以北鄙甫寧,不可輕動干戈,為國生事,但賜詔慰撫,厚禮其使遣還。自是受制于契丹,朝貢中絕。
五年六月、使いの元郁を遣わして兵を乞い、契丹が境を侵していると訴えた。朝廷は、北の辺境がようやく静まったばかりで、軽々しく干戈を動かして国に事を生じさせるわけにはいかないとして、ただ詔を賜って慰め撫で、その使いを厚い礼で帰らせた。これより契丹に押さえられて、朝貢は中ごろ絶えた。
5穆宗が位に即く
治卒,弟誦立,嘗遣兵校徐遠來候朝廷德音,遠久不至。
治が亡くなり、弟の誦(穆宗)が立って、かつて兵校の徐遠を遣わして朝廷の消息をうかがわせたが、遠は長く来着しなかった。
6朱仁紹の訴え
咸平三年,其臣吏部侍郎趙之遴命牙將朱仁紹至登州偵之,州將以聞,上特召見仁紹。因自陳國人思慕皇化,為契丹羈制之狀,乃賜誦鈿函詔一道,令仁紹賷還。
咸平三年、その臣の吏部侍郎の趙之遴が牙将の朱仁紹に命じて登州に至り、ようすを探らせた。州の将がこれを申し上げると、帝はとくに仁紹を召して会った。仁紹はそこで、国の人々が皇化を慕いながら契丹に縛られ押さえられているありさまをみずから申し上げたので、誦に鈿の函に納めた詔一通を賜い、仁紹に持ち帰らせた。
7燕の地を契丹に割いたため
六年,誦遣使戶部郎中李宣古來朝謝恩,且言:「晉割燕薊以屬契丹,遂有路趣玄菟,屢來攻伐,求取不已,乞王師屯境上為之牽制。」詔書優答之。
六年、誦は使いの戸部郎中の李宣古を遣わして朝し、恩を謝し、あわせて言った。「晋が燕・薊を割いて契丹に属させたので、ついに玄菟へ向かう道ができ、何度も来て攻め伐ち、求め取ることがやみません。願わくは王師を境の上に駐めて、これを牽制してくださいませ。」詔書で手厚く答えた。
8六つの城を争う
誦卒,弟詢權知國事。先是,契丹既襲高麗,遂築六城曰興州、曰鐵州、曰通州、曰龍州、曰龜州、曰郭州于境上。契丹以為貳己,遣使來求六城,詢不許。遂舉兵,奄至城下,焚蕩宮室,剽劫居人,詢徙居昇羅州以避之。兵退,乃遣使請和。契丹堅以六城為辭,自是調兵守六城。
誦が亡くなり、弟の詢(顕宗)が権知国事となった。これより先、契丹は高麗を襲ったのち、境の上に六つの城を築いた。興州・鉄州・通州・龍州・龜州・郭州である。契丹は高麗が自分に二心を抱いていると見て、使いを遣わして六城を求めたが、詢は許さなかった。そこで兵を挙げ、不意に城の下に至って宮室を焼き払い、住む人を掠め取ったので、詢は昇羅州に移って避けた。兵が退くと、そこで使いを遣わして和を請うた。契丹はかたく六城を言いがかりにしたので、これより兵を調えて六城を守った。
夾注 1
興州按通考卷三二五四裔考作「興化」。
「興州」は通考巻三二五の四裔考を調べると「興化」とある。
9鴨緑江の東の新しい城
大中祥符三年,大舉來伐,詢與女真設奇邀擊,殺契丹殆盡。詢又于鴨綠江東築城,與來遠城相望,跨江為橋,潛兵以固新城。
大中祥符三年、大いに兵を挙げて攻めて来たので、詢は女真とともに奇兵を置いて迎え撃ち、契丹をほとんど殺し尽くした。詢はまた鴨緑江の東に城を築いて来遠城と向かい合わせ、江にまたがって橋をかけ、兵をひそませて新しい城を固めた。
10竜鳳の鞍をささげる
七年,方遣告奏使御事工部侍郎尹證古以金線織成龍鳳鞍并綉龍鳳鞍幞各二幅、細馬二疋、散馬二十疋來貢。證古還,賜詢詔書七通并衣帶、銀綵、鞍勒馬等。
七年、ようやく告奏使の御事工部侍郎の尹證古を遣わして、金の糸で織り成した竜鳳の鞍ならびに竜鳳を刺繍した鞍の覆い各二幅、よい馬二頭、散馬二十頭をささげて貢いだ。證古が帰るとき、詢に詔書七通ならびに衣帯・銀綵・鞍をつけた馬などを賜った。
11郭元が伝えた高麗
八年,詔登州置館於海次以待使者。其年,又遣御事民官侍郎郭元來貢。元自言:「本國城無垣牆,府曰開城,管六縣,民不下三五千。有州軍百餘,置十路轉運司統之。每州管縣五六,小者亦三四,每縣戶三四百。國境南北千五百里,東西二千里。軍民雜處,隸軍者不黥面。方午為市,不用錢,第以布米貿易。地宜秔稻,風俗頗類中國。無羊、兔、橐駝、水牛、驢。氣候少寒,暑差多。有僧,無道士。民家器皿,悉銅為之。樂有二品:曰唐樂,曰鄉樂。三歲一試舉人,有進士、諸科、算學,每試百餘人,登第者不過一二十。每正月一日、五月五日祭祖禰廟。又正月七日,家為王母像戴之。二月望,僧俗燃燈如中國上元節。上巳日,以青艾染餅為盤羞之冠。端午有鞦韆之戲。士女服尚素。地產龍鬚席、藤席、白硾紙、鼠狼尾筆。」元辭貌恭恪,每受宴賜,必自為謝表,粗有文采,朝廷待之亦厚。九年,辭還,賜詢詔書七函,襲衣、金帶、器幣、鞍馬及經史、曆日、聖惠方等。元又請錄國朝登科記及所賜御詩以歸,從之。
八年、詔して登州に海辺の館を置き、使者をもてなさせた。その年、また御事民官侍郎の郭元を遣わして貢いだ。元はみずからこう言った。「本国の城には垣がなく、府は開城といい、六つの県を管し、民家は三、五千を下りません。州軍が百余りあり、十路の転運司を置いて統べ、州ごとに県を五つ六つ、少ないものでも三つ四つ管し、県ごとの戸数は三、四百です。国の境は南北千五百里、東西二千里です。軍人と民とがまじって住み、軍籍に入った者も顔に入れ墨をしません。真昼に市を開き、銭を使わず、ただ布と米で取り引きします。土地は粳稲に向き、風俗はかなり中国に似ています。羊・兎・駱駝・水牛・驢馬がいません。気候は寒さが少なく、暑さがやや多いです。僧はおり、道士はいません。民家の器はみな銅で作ります。音楽に二つの品があり、唐楽といい、郷楽といいます。三年に一度挙人を試験し、進士・諸科・算学があって、毎回百余人を試験しますが、及第する者は十人から二十人を超えません。正月一日と五月五日ごとに祖先の廟を祭ります。また正月七日には、家ごとに王母の像を作って身に着けます。二月の望には僧も俗人も灯をともし、中国の上元節のようです。上巳の日には、青い艾で染めた餅を膳の第一とします。端午にはぶらんこの遊びがあります。男女の服は白いのを尊びます。土地からは竜鬚の席、藤の席、白硾紙、鼠狼の尾の筆が産します。」元は言葉と姿がうやうやしく慎み深く、宴や賜り物を受けるたびに必ずみずから謝表を作り、ひととおりの文采があったので、朝廷の待遇も厚かった。九年、いとまを告げて帰るとき、詢に詔書七函、襲衣・金の帯・器幣・鞍をつけた馬、および経史・暦日・聖恵方などを賜った。元はまた、国朝の登科記と賜った御詩を写して持ち帰りたいと願ったので、これに従った。
夾注 1
唐樂「唐」原作「庫」,據下文及長編卷三二三、宣和奉使高麗圖經卷四0樂律條改。
「唐楽」の「唐」はもと「庫」とあったが、下の文および長編巻三二三、宣和奉使高麗図経巻四〇の楽律の条によって改めた。
12天禧年間の慶賀
天禧元年,遣御事刑官侍郎徐訥奉表獻方物于崇政殿,又賀封建壽春郡王。
天禧元年、御事刑官侍郎の徐訥を遣わして表をささげ、崇政殿で方物を献じ、また寿春郡王に封じられたことを賀した。
13崔元信の舟がくつがえる
三年九月,登州言高麗進奉使禮賓卿崔元信至秦王水口,遭風覆舟,漂失貢物,詔遣內臣撫之。十一月,元信等入見,貢罽錦衣褥、烏漆甲、金飾長刀匕首、罽錦鞍馬、紵布、藥物等,又進中布二千端,求佛經一藏。詔賜經還布,以元信覆溺匱乏,別賜衣服、繒綵焉。明州、登州屢言高麗海船有風漂至境上者,詔令存問,給度海粮遣還,仍為著例。
三年九月、登州が、高麗の進奉使の礼賓卿の崔元信が秦王水口に至って風に遭い、舟がくつがえって貢ぎ物を流し失ったと申し上げたので、詔して内臣を遣わして慰めさせた。十一月、元信らが入って謁見し、毛織の錦の衣と褥、黒漆の甲、金で飾った長刀と匕首、毛織の錦の鞍をつけた馬、紵布、薬物などを献じ、また中布二千端を献じて、仏経一蔵を求めた。詔して経を賜い、布は返させ、元信が水に遭って窮しているので、別に衣服と絹綵を賜った。明州と登州がたびたび、高麗の海船が風に流されて境に至ったと申し上げたので、詔を下して見舞い、海を渡る糧を与えて帰らせることとし、そのまま定めの例とした。
14韓祚の使行
五年,詢遣告奏使御事禮部侍郎韓祚等一百七十九人來謝恩,且言與契丹修好,又表乞陰陽地理書、聖惠方,並賜之。
五年、詢は告奏使の御事礼部侍郎の韓祚ら百七十九人を遣わして恩を謝し、あわせて契丹と好を修めたことを言い、また表で陰陽地理書と聖恵方を乞うたので、いずれも賜った。
15金行成の一生
金行成者,累官至殿中丞,治表乞放還。行成自以筮仕朝廷,不願歸本國。又以父母垂老,在海外旦暮思念,恨祿不及,令工圖其像置正寢,與妻史氏居旁室,晨夕定省上食,未嘗少懈。淳化初,通判安州。被病,知州李範與僚佐數人省之,行成病已篤,泣且言曰:「行成外國人,為朝官,佐郡政,病且死,未有以報主恩,雖瞑目固有遺恨。二子宗敏、宗訥皆幼,家素貧,無他親可依,旦暮委溝壑矣。」未幾,行成死,其妻養二子,誓不嫁,織屨以給。範表其事,詔以宗敏補太廟齋郎,令安州月給其家錢叄緡、米五斛,長吏歲時存問。
金行成は官を重ねて殿中丞に至ったが、治が表を上げて帰国させてほしいと乞うた。行成は、みずから朝廷で初めて官に就いたのだからと、本国に帰ることを願わなかった。また父母が老いて、海の外で朝夕に思いながらも俸禄が及ばないのを恨み、絵師にその姿を描かせて正寝に置き、妻の史氏とともに脇の部屋に住んで、朝夕の見舞いと食事の供えを少しも怠らなかった。淳化の初め、安州の通判となった。病にかかったとき、知州の李範が僚佐数人とともに見舞うと、行成の病はすでに重く、泣きながら言った。「行成は外国の人でありながら朝廷の官となり、郡の政を助けてきました。病んで死ぬばかりですが、まだ主君の恩に報いていないので、目を閉じてもまことに残る恨みがあります。二人の子の宗敏・宗訥はどちらも幼く、家はもとより貧しく、ほかに頼れる親族もありません。朝夕のうちに溝に捨てられることになりましょう。」いくらもたたず行成は死に、その妻は二人の子を育てて再び嫁がないと誓い、履を織って暮らしを立てた。範がその事を表で申し上げたので、詔して宗敏を太廟斎郎に補し、安州から月ごとにその家に銭三緡と米五斛を給し、長吏が折々に見舞うようにさせた。
16康戩の一生
又高麗信州永寧人康戩,字休祐,父允,三世為兵部侍郎。戩少好學,時紇升與契丹交兵,戩從允戰木葉山下,連中二矢,神色不變。後陷契丹,遁居墨斗嶺,又至黃龍府,間道得歸高麗,時允猶在。開寶中,允遣戩隨賓貢肄業國學。太平興國五年,登進士第,解褐大理評事,知湘鄉縣,再遷著作佐郎,知江陰軍、江州。歷官以清白幹力聞,改太常博士。蘇易簡在翰林,稱其吏才,命為廣南西路轉運副使,賜緋魚,就遷正使,再轉度支員外郎、戶部判官。出知峽、越二州,連被詔褒其能政。又為京西轉運使,加工部郎中,賜金紫。戩所至好行事,上章多建白,以竭誠自任。景德三年,卒,真宗特以其子希齡為太常寺奉禮郎,給奉終喪。
また高麗の信州永寧の人の康戩は、字は休祐で、父の允まで三代にわたって兵部侍郎であった。戩は若いころから学ぶことを好んだ。そのころ紇升が契丹と戦っており、戩は允に従って木葉山の下で戦い、続けて二本の矢に当たっても顔色を変えなかった。のちに契丹に捕らわれ、墨斗嶺に隠れ住み、また黄竜府まで行って、間道から高麗に帰ることができた。そのとき允はまだ生きていた。開宝の間、允は戩を賓貢に従わせて国学で学業につかせた。太平興国五年、進士に及第し、大理評事として官途に就いて湘郷県を知し、二度うつって著作佐郎として江陰軍と江州を知した。官を歴て清白で有能なことで知られ、太常博士にうつった。蘇易簡が翰林にあって、その吏としての才を称えたので、広南西路転運副使に命じられ、緋の衣と魚袋を賜り、そのまま正使にうつり、さらに度支員外郎・戸部判官にうつった。出て峡州・越州の二州を知し、続けて詔でその善政を褒められた。また京西転運使となり、工部郎中を加えられて金紫を賜った。戩は行く先ごとに事を行うことを好み、章を上げて建言することが多く、誠を尽くすことをみずからの務めとした。景徳三年に亡くなり、真宗はとくにその子の希齢を太常寺奉礼郎とし、喪を終えるまで俸を給した。
夾注 1
紇升
紇升 — 渤海の遺民を指す。 ― 訳者
17真宗の遺品
乾興元年二月,祚等辭歸國,賜詢如故事。會真宗晏駕,又賷遺物以賜詢。
乾興元年二月、祚らがいとまを告げて帰国したので、先の例のとおり詢に賜った。ちょうど真宗が崩じたので、さらに遺された品を持たせて詢に賜った。
18四十三年の断絶
天聖八年,詢復遣御事民官侍郎元穎等二百九十三人奉表入見於長春殿,貢金器、銀罽刀劍、鞍勒馬、香油、人參、細布、銅器、磂黃、青鼠皮等物。明年二月辭歸,賜予有差,遣使護送至登州。其後絕不通中國者四十三年。
天聖八年、詢はふたたび御事民官侍郎の元穎ら二百九十三人を遣わして表をささげ、長春殿で入って謁見し、金の器、銀飾りの毛織の刀剣、鞍をつけた馬、香油、人参、細い布、銅の器、硫黄、青鼠の皮などの品を献じた。翌年二月、いとまを告げて帰ったので、差をつけて賜り、使いを遣わして登州まで護送させた。その後、中国と通じないことが四十三年にわたった。
19文宗が位に即く
詢孫徽嗣立,是為文王。
詢の孫の徽が継いで立った。これが文王(文宗)である。
20礼賓省の書
熙寧二年,其國禮賓省移牒福建轉運使羅拯云:「本朝商人黃真、洪萬來稱,運使奉密旨,令招接通好。奉國王旨意,形于部述。當國僻居暘谷,邈戀天朝,頃從祖禰以來,素願梯航相繼。蕞爾平壤,邇于大遼,附之則為睦鄰,疏之則為勍敵。慮邊騷之弗息,蓄陸讋以靡遑,久困羈縻,難圖攜貳,故違述職,致有積年。屢卜雲祥,雖美聖辰於中國;空知日遠,如迷舊路於長安。運屬垂鴻,禮稽展慶。大朝化覃無外,度豁包荒,山不謝乎纖埃,海不辭於支派。謹當遵尋通道,遄赴槀街,但茲千里之傳聞,恐匪重霄之紆眷。今以公狀附真、萬西還,俟得報音,即備禮朝貢。」徽又自言嘗夢至中華,作詩紀其事。三年,拯以聞,朝廷議者亦謂可結之以謀契丹,神宗許焉,命拯諭以供擬腆厚之意。徽遂遣民官侍郎金悌等百十人來,詔待之如夏國使。
熙寧二年、その国の礼賓省が福建転運使の羅拯に牒を送って言った。「本朝の商人の黄真・洪万が来て、運使が密旨を奉じて、招き迎えて通好させようとしていると申しました。国王の意を奉じて、言葉をひろげます。こちらの国は日の出る谷に辺りして住み、はるかに天朝を慕い、先祖の代から以来、船と梯を相次がせたいともとより願ってまいりました。ちいさな平壌は大遼に近く、これに付けば睦まじい隣となりますが、これを疎んずれば強い敵となります。辺境の騒ぎがやまぬことを慮り、恐れを積んでいとまもなく、長く羈縻に困しんで二心を図ることも難しく、そのため職を述べることに違い、幾年もを過ごしました。たびたび瑞雲を占って、中国の聖なる日を美しとしましたが、むなしく日の遠いことだけを知って、長安への旧い道に迷うようでした。運が大いにひらけるのに遇い、礼として慶びをひろげることを考えます。大朝の教化は外のないほどに覆い、度量は広く包まれ、山は細かな塵を辞せず、海は分かれた流れをも拒みません。つつしんで通う道をたどり、速やかに槀街へ赴こうと存じますが、ただこれは千里の伝え聞きゆえ、天のお目をかけてくださることでないのではと恐れます。いま公式の文書を真・万に託して西へ帰らせますので、返しの音を得たならば、すぐに礼を備えて朝貢いたします。」徽はまた、かつて夢に中華に至ったとみずから言い、詩を作ってその事を記した。三年、拯がこれを申し上げると、朝廷で議する者たちも、これと結んで契丹を図るのがよいと言ったので、神宗は許し、拯に命じて、もてなしを手厚くする意を諭させた。徽はついに民官侍郎の金悌ら百十人を遣わしてきたので、詔して夏国の使いと同じように待遇させた。
夾注 1
蓄陸讋以靡遑「讋」原作「襲」,據通考卷三二五四裔考改。
「蓄陸讋以靡遑」の「讋」はもと「襲」とあったが、通考巻三二五の四裔考によって改めた。