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高麗三 — 文宗から仁宗まで高麗 三

宋史 高麗伝(宋史に記された高麗の記録) 宋史 高麗傳 · 脱脱ほか · 1345年(元・至正5年) · 段落 24 · 漢字 2,101字 · 朗読 8.4分

宋史 高麗伝(宋史に記された高麗の記録) 全一巻 宋が見た高麗二百年。王建の冊封から徐熙・義天・金富軾の名が通り過ぎ、蘇軾が高麗の使者を退けた経緯、神舟二隻の航路、八関斎と開京の風俗まで — 海を越えて書き記された高麗の実録である。

1明州へ道を改める

往時高麗人往反皆自登州,七年,遣其臣金良鑑來言,欲遠契丹,乞改塗由明州詣闕,從之。郡縣供頓無舊準,頗擾民,詔立式頒下,費悉官給。又以其不邇華言,恐規利者私與交關,令所至禁止。徽問遺二府甚厚,詔以付市易務售縑帛答之。又表求醫藥、畫塑之工以教國人,詔羅拯募願行者。

以前は高麗の人の行き帰りはみな登州を通っていたが、七年に、その臣の金良鑑を遣わして来て、契丹を遠ざけたいので、明州を経て闕に至る道に改めたいと乞うたので、これに従った。郡県のもてなしに古い基準がなく、かなり民を煩わせたので、詔して法式を立てて頒ち下し、費用はすべて官で給することとした。また彼らが中国の言葉に馴れていないので、利をねらう者がひそかに取り引きすることを恐れて、至る所でこれを禁じさせた。徽が二府に贈る品がはなはだ厚かったので、詔して市易務に渡し、縑帛を売ってこれに答えさせた。また表で医薬と絵や彫りの工を求めて国の人に教えたいと言ったので、詔して羅拯に、行くことを願う者を募らせた。

2文を尊ぶ国

九年,復遣崔思訓來,命中貴人倣都亭西驛例治館,待之寖厚,其使來者亦益多。嘗獻伶官十餘輩,曰:「夷樂無足觀,止欲潤色國史爾。」帝以其國尚文,每賜書詔,必選詞臣著撰而擇其善者。

九年、ふたたび崔思訓を遣わしてきたので、宮中の人に命じて都亭西駅の例にならって館を造らせ、待遇はいよいよ厚くなり、来る使いもますます多くなった。かつて伶官十余人を献じて、「夷の音楽は見るに足りませんが、ただ国史に彩りを添えたいだけです」と言った。帝は、その国が文を尊ぶので、書や詔を賜るたびに必ず文臣を選んで作らせ、そのよいものを選んだ。

3神舟を浮かべる

元豐元年,始遣安燾假左諫議大夫、陳睦假起居舍人往聘。造兩艦於明州,一曰凌虛致遠安濟,次曰靈飛順濟,皆名為神舟。自定海絕洋而東,既至,國人歡呼出迎。徽具袍笏玉帶拜受詔,與燾、睦尤禮,館之別宮,標曰順天館,言尊順中國如天云。徽已病,僅能拜命,且乞醫藥。

元豊元年、はじめて安燾に左諫議大夫を、陳睦に起居舎人を仮に授けて聘問に遣わした。明州で二隻の艦を造り、一つを凌虛致遠安済といい、次を靈飛順済といって、いずれも神舟と名づけた。定海から大海を横切って東へ行き、着くと、国の人々は歓呼して出迎えた。徽は袍と笏と玉の帯を整えて拝して詔を受け、燾・睦をことに礼遇して、別の宮に宿らせ、順天館と標を掲げた。中国を尊び従うことは天に対するようだという意味であった。徽はすでに病んでいて、かろうじて命を拝することができ、あわせて医薬を乞うた。

夾注 2

假左諫議大夫「假」字原脫,據本書卷三二八安燾傳、長編卷八七補。

「假左諫議大夫」の「假」の字はもと脱けていたが、本書巻三二八の安燾伝および長編巻八七によって補った。

凌虛致遠安濟「致遠」、「安濟」原倒,據長編卷八七、宋會要食貨五0之四、宣和奉使高麗圖經卷三四乙正。

「凌虛致遠安済」の「致遠」と「安済」はもと前後が入れ替わっていたが、長編巻八七、宋会要食貨五〇の四、宣和奉使高麗図経巻三四によって正した。

4日本の車をささげる

二年,遣王舜封挾醫往診治。徽又使柳洪來謝,海中遇風,失所貢物。洪上章自劾,敕書安慰。尋獻日本所造車,曰:「諸侯不貢車服,故不敢與土貢同進。」前此貢物至,輒下有司估直,償以萬縑,至是命勿復估,以萬縑為定數。

二年、王舜封を遣わして医者を連れて行かせ、診て治させた。徽はまた柳洪を使いとして来させて謝したが、海で風に遭って献じようとした物を失った。洪は章を上げてみずからを弾劾したので、勅書で慰めた。ついで日本で造った車を献じて、「諸侯は車と服を貢がないものですから、あえて土貢といっしょに差し出すことはいたしません」と言った。これより前は貢ぎ物が着くと、すぐに担当の官司に下して値を見積もらせ、縑一万疋で償っていたが、ここに至って、もう値を見積もることはせず、一万疋を定まった数とするよう命じた。

夾注 1

不敢與土貢同進「進」字原脫,據長編卷三0二補。

「不敢與土貢同進」の「進」の字はもと脱けていたが、長編巻三〇二によって補った。

5文宗が亡くなる

六年,徽卒,在位三十八年,治尚仁恕,為東夷良主。然猶循其俗,王女不下嫁臣庶,必歸之兄弟,宗族貴臣亦然。次子運諫,以為既通上國,宜以禮革故習。徽怒,斥之于外。訃聞,天子閔焉,詔明州修浮屠供一月,遣楊景略、王舜封祭奠,錢勰、宋球弔慰。景略辟李之儀書狀,帝以之儀文稱不著,宜得問學博洽、器宇整秀者召赴中書,試以文乃遣。又以遠服不責其備,諭使者以相見之所殿名、鴟吻,皆聽勿避。

六年、徽が亡くなった。位にあること三十八年、その治めかたは仁と寛容を尊び、東夷のよい君主であった。しかしなお、その国の風俗に従って、王の娘を臣下や民には嫁がせず、必ず兄弟に嫁がせ、宗族や貴い臣もそうであった。次子の運が諫めて、すでに上国と通じたのだから、礼によって古い習いを改めるべきだと言ったので、徽は怒って彼を外へ退けた。訃報が届くと、天子は哀れんで、詔して明州でひと月のあいだ仏の供養を修めさせ、楊景略・王舜封を遣わして祭奠し、銭勰・宋球を遣わして弔い慰めさせた。景略が李之儀を書状官に挙げると、帝は、之儀は文名が高くないとして、学問が広く行きわたり、器量の整った者を得るべきだと言って、中書に召し出し、文で試験してから遣わした。また遠い国であるから備えが整わないことを責めず、使者に、会見する所の殿の名や鴟吻は、すべて避けなくてよいと諭した。

6順宗と宣宗

徽子順王勳嗣,百日卒。弟宣王運嗣。運仁賢好文,內行飭備,每賈客市書至,則潔服焚香對之。

徽の子の順王の勲(順宗)が継いだが、百日で亡くなり、弟の宣王の運(宣宗)が継いだ。運は仁があり賢く、文を好み、身の内の行いがよく整っていて、商人が書を売りに来るたびに、衣を清めて香を焚いてこれに向かった。

夾注 1

弟宣王運嗣「運嗣」二字原脫,據通考卷三二五四裔考補。

「弟宣王運嗣」の「運嗣」の二字はもと脱けていたが、通考巻三二五の四裔考によって補った。

7弟の僧統義天

八年,遣其弟僧統來朝,求問佛法并獻經像。

八年、その弟の僧統(義天)を遣わして朝し、仏法を問い求め、あわせて経と仏像を献じた。

8文苑英華を賜う

哲宗立,遣使金上琦奉慰,林暨致賀,請市刑法之書、太平御覽、開寶通禮、文苑英華。詔惟賜文苑英華一書,以名馬、錦綺、金帛報其禮。

哲宗が位に即くと、使いの金上琦を遣わして弔いをささげ、林暨が慶賀し、刑法の書、太平御覧、開宝通礼、文苑英華を買いたいと請うた。詔して文苑英華一書だけを賜い、名馬と錦綺と金帛でその礼に報いた。

夾注 1

林暨長編卷三六二作「林槩」。

「林暨」は長編巻三六二に「林槩」とある。

9献宗と粛宗

運立四年卒,子懷王堯嗣,未閱歲,以病不能為國,國人請其叔父鷄林公熙攝政。未幾堯卒,熙乃立,凡數歲使不至。

運が立って四年で亡くなり、子の懐王の堯(献宗)が継いだが、一年もたたず、病のために国を治めることができなくなったので、国の人々はその叔父の鷄林公の熙(粛宗)に摂政を請うた。いくらもたたず堯が亡くなり、熙がそこで立ったので、およそ数年のあいだ使いが来なかった。

夾注 1

鷄林公熙「熙」下原衍「衞」字,據下文及通考卷三二五四裔考刪。

「鷄林公熙」 — 「熙」の下にもと「衞」の字が誤って入っていたが、下の文および通考巻三二五の四裔考によって削った。

10蘇軾が金の塔を退ける

元祐四年,其王子義天使僧壽介至杭州祭亡僧,言國母使持二金塔為兩宮壽,知州蘇軾奏却之,語在軾傳。熙後避遼主諱,改名顒。顒性貪吝,好奪商賈利,富室犯法,輒久縻責贖,雖微罪亦輸銀數斤。

元祐四年、その王子の義天が僧の寿介を遣わして杭州に至り、亡くなった僧を祭らせ、国母が二つの金の塔を持たせて両宮の長寿を祈らせたと言ったが、知州の蘇軾が申し上げてこれを退けた。話は軾の伝にある。熙はのちに遼の主の名を避けて、名を顒と改めた。顒は性が貪欲で物惜しみし、商人の利を奪うことを好み、富んだ家が法を犯すと、すぐに長く引き留めて贖いを求め、小さな罪でも銀数斤を出させた。

11銀の器五千両

五年,復通使,賜銀器五千兩。

五年、ふたたび使いを通じたので、銀の器五千両を賜った。

12蘇軾の挙げた五つの害

七年,遣黃宗慤來獻黃帝鍼經,請市書甚眾。禮部尚書蘇軾言:「高麗入貢,無絲髮利而有五害,今請諸書與收買金箔,皆宜勿許。」詔許買金箔,然卒市冊府元龜以歸。

七年、黄宗慤を遣わして黄帝鍼経を献じ、書を買いたいとはなはだ多く請うた。礼部尚書の蘇軾が言った。「高麗の入貢には髪の毛ほどの利もなく、五つの害があります。今回請うてきた書々と金箔の買い入れは、すべて許すべきではありません。」詔して金箔を買うことは許したが、それでも結局は冊府元龜を買って帰った。

13元符年間の賓貢

元符中,遣士賓貢。

元符の間、学士を遣わして賓貢とした。

14徽宗の即位

徽宗立,遣任懿、王嘏來弔賀。

徽宗が位に即くと、任懿と王嘏を遣わして弔いと慶賀をさせた。

15劉逵と呉拭の使行

崇寧二年,詔戶部侍郎劉逵、給事中吳拭往使。

崇寧二年、詔して戸部侍郎の劉逵、給事中の呉拭を使いとして遣わした。

16睿宗と五人の留学生

顒卒,子俁嗣,貢使接踵,且令士子金瑞等五人入太學,朝廷為置博士。

顒が亡くなり、子の俁(睿宗)が継いだので、貢ぎの使いが相次ぎ、あわせて学士の金瑞ら五人を太学に入らせたので、朝廷は彼らのために博士を置いた。

17夏国より上に置く

政和中,升其使為國信,禮在夏國上,與遼人皆隸樞密院;改引伴、押伴官為接送館伴。賜以大晟燕樂、籩豆、簠簋、尊罍等器,至宴使者于睿謨殿中。

政和の間、その使いを国信に昇らせ、礼遇を夏国の上に置き、遼の人とともにみな枢密院に属させ、引伴・押伴の官を接送・館伴と改めた。大晟の燕楽と、籩豆・簠簋・尊罍などの器を賜い、睿謨殿のなかで使者に宴を設けるまでになった。

18二人の医者が伝えた警告

宣和四年,俁卒。初,高麗俗兄終弟及,至是諸弟爭立,其相李資深立俁子楷。來告哀,詔給事中路允迪、中書舍人傅墨卿奠慰。俁之在位也,求醫於朝,詔使二醫往,留二年而歸,楷語之曰:「聞朝廷將用兵伐遼。遼兄弟之國,存之足為邊扞。女真狼虎耳,不可交也。業已然,願二醫歸報天子,宜早為備。」歸奏其言,已無及矣。

宣和四年、俁が亡くなった。はじめ高麗の風俗では、兄が終われば弟が継いだが、ここに至って弟たちが争って立とうとしたので、その相の李資深が俁の子の楷(仁宗)を立てた。来て喪を告げたので、詔して給事中の路允迪、中書舎人の傅墨卿を遣わして祭り慰めさせた。俁が位にあったとき、朝廷に医者を求めたので、詔して二人の医者を遣わし、二年とどまって帰るときに、楷が彼らに言った。「聞くところでは、朝廷はまさに兵を用いて遼を伐とうとしているとのことです。遼は兄弟の国で、これを存えさせておけば辺りの垣とするに足ります。女真は狼や虎ですから、交わってはなりません。事がすでにそうなっているのなら、願わくはお二人の医者が帰って天子に申し上げ、早く備えをなさるようにしてください。」帰ってその言葉を奏したが、すでに及ぶところではなかった。

夾注 1

李資深按宣和奉使高麗圖經卷二作「李資謙」。

「李資深」は宣和奉使高麗図経巻二を調べると「李資謙」とある。

19明州にとどめる

欽宗立,賀使至明州,御史胡舜陟言:「高麗靡敝國家五十年,政和以來,人使歲至,淮、浙之間苦之。彼昔臣事契丹,今必事金國,安知不窺我虛實以報,宜止勿使來。」乃詔留館於明而納其贄幣。明年始歸國。

欽宗が位に即くと、慶賀の使いが明州に至ったが、御史の胡舜陟が言った。「高麗は国家を疲れさせること五十年、政和より以来、人の使いが年ごとに至って、淮と浙のあいだが苦しんでいます。彼らは昔は契丹に臣として仕えましたから、いまは必ず金国に仕えるでしょう。わが虚実をうかがって報せないとどうして言い切れましょう。やめさせて来させないようにするべきです。」そこで詔して明州の館にとどめ、その贄と幣だけを受け取った。翌年になってようやく帰国した。

20契丹に仕えていた事情

自王徽以降,雖通使不絕,然受契丹封冊,奉其正朔,上朝廷及他文書,蓋有稱甲子者。歲貢契丹至於六,而誅求不已。常云:「高麗乃我奴耳,南朝何以厚待之?」使至其國,尤倨暴,館伴及公卿小失意,輒行捽箠,聞我使至,必假他事來覘,分取賜物。嘗詰其西向修貢事,高麗表謝,其略曰:「中國,三甲子方得一朝;大邦,一周天每修六貢。」契丹悟,乃得免。

王徽より以降、使いを通ずることは絶えなかったが、契丹の封冊を受けてその正朔を奉じ、朝廷やそのほかに上げる文書に、おおむね甲子で年を称したものがあった。年ごとに契丹に貢ぐことが六度にまで及んだのに、求め取ることはやまなかった。契丹はつねに「高麗はわが下僕にすぎないのに、南朝はどうしてあれほど厚く待遇するのか」と言っていた。使いがその国に至ると、いよいよ傲り荒々しく、館伴や公卿が少しでも意に逆らうと、すぐに髪をつかんで打ち、わが使いが着いたと聞くと、必ず別の事にかこつけて来てうかがい、賜り物を分け取った。かつて西に向かって貢を修めることを詰ったので、高麗は表で謝し、その大略に「中国へは三甲子でやっと一度朝するだけですが、大邦へは一周天ごとに六度の貢を修めております」と言ったので、契丹は納得し、そこでまぬがれることができた。

21胡蠡の使行

高宗即位,慮金人通於高麗,命迪功郎胡蠡假宗正少卿為高麗國使以間之。蠡之回,史失書。

高宗が位に即くと、金の人が高麗と通じることを慮って、迪功郎の胡蠡に宗正少卿を仮に授け、高麗国の使いとしてようすを探らせた。蠡が帰ったことについては、史に記されていない。

22楊応誠のむなしい計略

二年,浙東路馬步軍都總管楊應誠上言:「由高麗至女真路甚徑,請身使三韓,結鷄林以圖迎二聖。」乃以應誠假刑部尚書充高麗國信使。浙東帥臣翟汝文奏言:「應誠欺罔,為身謀耳。若高麗辭以金人亦請問津以窺吳、越,其將何辭以對?萬一辱命,取笑遠夷,願毋遣。」應誠聞之,遂與副使韓衍、書狀官孟健由杭州浮海以行。六月,抵高麗,諭其王楷以所欲為,楷曰:「大朝自有山東路,盍不由登州往?」應誠曰:「以貴國路徑耳。」楷有難色,已而命其門下侍郎傅佾至館中,果對如翟汝文言。應誠曰:「女真不善水戰。」佾曰:「彼常於海道往來,況女真舊臣本國,今反臣事之,其強弱可見矣。」居數日,復遣其中書侍郎崔洪宰、知樞密院金富軾持前議不變,謂二聖今在燕雲,大朝雖盡納土,未必可得,何不練兵與戰?終不奉詔。

二年、浙東路馬歩軍都総管の楊応誠が申し上げた。「高麗から女真に至る道はたいへん近道です。願わくはみずから三韓に使いして、鷄林と結び、二聖をお迎えすることを図りたく存じます。」そこで応誠に刑部尚書を仮に授け、高麗国信使に充てた。浙東の帥臣の翟汝文が奏して言った。「応誠の偽りは、自分の身のための計りごとにすぎません。もし高麗が〈金の人もまた渡し場を尋ねて呉・越をうかがいたいと請うたなら、何と言ってお答えになるのですか〉と言って辞退したら、何と言って答えるのでしょう。万一命を辱めて遠い夷に笑われることになりますから、お遣わしにならぬよう願います。」応誠はこれを聞いて、そのまま副使の韓衍、書状官の孟健とともに杭州から海に浮かんで行った。六月、高麗に着き、その王の楷にしようとすることを諭すと、楷は「大朝にはもとより山東の道があるのに、どうして登州から行かれないのですか」と言った。応誠が「貴国の道が近道だからです」と言うと、楷は困った顔つきをした。やがてその門下侍郎の傅佾を館のなかに遣わしたが、はたして翟汝文の言ったとおりに答えた。応誠が「女真は水の戦がうまくない」と言うと、佾は「彼らはいつも海の道を行き来しております。まして女真は昔は本国の臣でしたが、いまは逆に臣として仕えているのですから、その強弱は見てとれましょう」と言った。数日いると、ふたたびその中書侍郎の崔洪宰、知枢密院の金富軾を遣わして、前の議を守って変えず、二聖はいま燕雲におられるので、大朝が土地をすべて差し出したとしても、必ず得られるとはかぎらない、どうして兵を練って戦われないのかと言い、ついに詔を奉じなかった。

夾注 2

都總管繫年要錄卷一四、通考卷三二五四裔考都作「副總管」。

「都総管」は繫年要録巻一四と通考巻三二五の四裔考のいずれにも「副総管」とある。

居數日「日」原作「月」,據繫年要錄卷一六、通考卷三二五四裔考改。

「居數日」の「日」はもと「月」とあったが、繫年要録巻一六、通考巻三二五の四裔考によって改めた。

23寿昌門で拝礼を受けて帰る

應誠留兩月餘,不得已見楷於壽昌門,受其拜表而還。十月,至闕,入對言狀,上以楷負國恩,怒甚。尚書右丞朱勝非曰:「彼鄰金人,與中國隔海,利害甚明。曩時待之過厚,今安能責其報也。」右僕射黃潛善曰:「以巨艦載精兵數萬,徑擣其國,彼寧不懼。」勝非曰:「越海興師,燕山之事可為近鑒。」上怒解。十一月,楷遣其臣尹彥頤奉表謝罪,詔以二聖未歸,燕設不宜用樂,乃設幕殿門外,命客省官吳得興伴賜酒食,命中書舍人張澂押伴,如禮遣還。

応誠は二月あまりとどまり、やむなく寿昌門で楷に会い、その拝表だけを受け取って帰った。十月、闕に至って入って対し、ありさまを申し上げると、帝は楷が国の恩に背いたとして、怒りがはなはだしかった。尚書右丞の朱勝非が言った。「彼らは金の人と隣り合い、中国とは海で隔てられていますから、利害はきわめて明らかです。以前の待遇が厚すぎたのですから、いまどうしてその報いを責められましょうか。」右僕射の黄潛善が「大きな艦に精鋭数万を載せ、まっすぐその国を討てば、彼らが恐れないはずがありません」と言うと、勝非は「海を越えて兵を起こすことについては、燕山の事が近い鑑とするに足ります」と言ったので、帝の怒りは解けた。十一月、楷はその臣の尹彦頤を遣わして表をささげ、罪を謝した。詔して、二聖がまだ帰っていないので宴に楽を用いるのはふさわしくないとして、殿門の外に幕の殿を設け、客省官の呉得興に命じて相伴して酒と食事を賜わらせ、中書舎人の張澂に押伴を命じて、礼のとおりに帰らせた。

24上皇の遣わす人を退ける

三年八月,上謂輔臣曰:「聞上皇遣內臣、宮女各二人隨高麗貢使來,朕聞之悲喜交集。」呂頤浩曰:「此必金人之意,不然高麗必不敢,安知非窺我虛實以報。」於是詔止之,略曰:「王緬守基圖,夙同文軌,乃附乘桴之信,嗣修貢篚之恭。惟忠順之無他,質神明而靡愧,屬關聞聽,良用歎嘉。言念晚年,實為多故,舉中原之生聚,遭強敵之震驚,既涉境以冞深,猶稱兵而未已,茲移仗衞,暫駐江湖。如行使之果來,恐有司之不戒,俟休邊警,當問聘期。壞晉館以納車,庶無後悔,閉漢關而謝質,非用前規。想彼素懷,知吾誠意。」

三年八月、帝が輔臣たちに言った。「聞くところでは、上皇(徽宗)が内臣と宮女をそれぞれ二人、高麗の貢ぎの使いに添えて遣わされるとのことだ。朕はこれを聞いて悲しみと喜びが入りまじっている。」呂頤浩が「これは必ず金の人の意です。そうでなければ高麗はあえていたしますまい。わが虚実をうかがって報せるためでないと、どうして分かりましょう」と言ったので、そこで詔してこれをやめさせた。その大略に言う。「王は遠く基業を守り、早くから文と車の軌を同じくし、桴に乗せて信を託し、貢ぎの籠のうやうやしさを継いで修めてきた。忠順に他意のないことは、神明に問うても恥じるところがなく、このごろ聞くところには、まことに歎じ嘉するものがある。思えば近年はまことに事が多く、中原の民を挙げて強い敵の震いに遭い、すでに境に深く入り込まれ、なお兵を称えてやまないので、こうして儀仗と護衛を移して、しばらく江湖にとどまっている。もし使いがはたして来たならば、有司が備えきれないことを恐れる。辺りの警報が休むのを待って、聘問の期を問うことにしよう。晋の館を壊して車を入れた事は、後の悔いのないことを願ってであり、漢の関を閉じて質を断った事は、前の規を用いるためではない。そなたのもとより抱く心を思いやり、わが誠意を知ってほしい。」

夾注 1

俟休邊警「警」原作「境」,據通考三二五四裔考改。

「俟休邊警」の「警」はもと「境」とあったが、通考三二五の四裔考によって改めた。