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日本

新唐書 東夷伝(新唐書に記された東夷の記録) 新唐書 東夷傳 · 欧陽脩・宋祁 · 1060年(北宋・嘉祐5年) · 段落 8 · 漢字 1,074字 · 朗読 4.3分

新唐書 東夷伝(新唐書に記された東夷の記録) 全一巻 旧唐書を百年後に書き改めた東夷伝。太宗の三つの計略と安市城の全容がより生々しく、新羅の条には骨品と和白、そして張保皋・鄭年の話に「誰が東夷に人がいないと言うのか」という賛が付けられた。日本の条は天皇の系譜を初めて備えて記した。

1古の倭奴国

日本,古倭奴也。去京師萬四千里,直新羅東南,在海中,島而居,東西五月行,南北三月行。國無城郛,聯木爲柵落,以草茨屋。左右小島五十餘,皆自名國,而臣附之。置本(大)率一人,檢察諸部。其俗多女少男,有文字,尚浮屠法。其官十有二等。

日本は古の倭奴である。京師から一万四千里、新羅の東南、海の中にあって島に住み、東西は五か月の道のり、南北は三か月の道のりである。国に城郭はなく、木を連ねて柵の集落を作り、草で屋根を葺く。左右の小島は五十余りあり、みな自ら国と名のりながら、臣としてこれに付いている。本率一人を置いて、諸部を検察させる。その風俗は女が多く男が少なく、文字があり、浮屠の法を尊ぶ。官は十二等ある。

2天皇の系譜

其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡二十二世,皆以「尊」爲號,居筑紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閑,次宣化,次欽明。

王の姓は阿毎氏である。自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るまで、およそ二十二世はみな「尊」を号として筑紫城に住んだという。彦瀲の子の神武が立って「天皇」と号を改め、大和州に移って治めた。次を綏靖といい、次は安寧、次は懿徳、次は孝昭、次は天安、次は孝霊、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀である。仲哀が死ぬと、開化の曾孫の女である神功を王とした。次は応神、次は仁徳、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明である。

3隋と通じる

欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女椎古立。次舒明,次皇極。其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裠,長𦝫襦,結髮于後。至煬帝,賜其民錦綫冠,飾以金玉,文布爲衣,左右佩銀蘤,長八寸,以多少明貴賤。

欽明の十一年は、ちょうど梁の承聖元年に当たる。次は海達(敏達)である。次の用明は目多利思比孤ともいい、ちょうど隋の開皇の末で、初めて中国と通じた。次は崇峻である。崇峻が死ぬと、欽明の孫の女である椎古が立った。次は舒明、次は皇極である。その風俗は髪を槌のような形に結い、冠も帯もなく、裸足で歩き、幅の広い布で後ろを覆うが、身分の高い者は錦を用いる。婦人は無地の裳に腰の長い襦を着て、髪を後ろで結ぶ。煬帝の時に至って、その民に錦糸の冠を賜り、金と玉で飾らせ、文のある布で衣を作らせ、左右に銀の花を佩びさせた。長さは八寸で、その多少によって貴賤を明らかにした。

4高仁表の失礼

太宗貞觀五年,遣使者入朝,帝矜其遠,詔有司毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。永徽初,其王孝德卽位,改元曰白雉,獻虎魄大如斗,碼碯若五升器。時新羅爲高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅。

太宗の貞観五年、使者を遣わして入朝した。帝はその遠さを気づかい、担当の役所に詔して毎年の朝貢に縛られないようにさせ、新州刺史の高仁表を遣わして諭させた。ところが王と礼を争って折り合わず、天子の命を宣べないまま帰ってきた。久しくたって、改めて新羅の使者に付いて書を上った。永徽の初め、その王の孝徳が即位して年号を白雉と改め、斗ほどの大きさの琥珀と、五升の器ほどの瑪瑙を献じた。そのころ新羅は高麗と百済に苦しめられていたので、高宗は璽書を賜り、兵を出して新羅を援けるよう命じた。

5日本と名を改める

未幾孝德死,其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十步,射無不中。天智死,子天武立。死,子揔持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言:「國近日所出,以爲名。」或云:「日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外卽毛人云。

いくらもたたず孝徳が死に、子の天豊財が立った。死ぬと、子の天智が立った。翌年、使者が蝦蛦の人とともに朝した。蝦蛦も海の島に住んでいる。その使者は鬚の長さが四尺ほどあり、矢を頭に挿し、人に瓠を頭に載せて数十歩のところに立たせて射たが、当たらないものがなかった。天智が死ぬと子の天武が立ち、死ぬと子の揔持が立った。咸亨元年、使者を遣わして高麗の平定を祝った。後に次第に中国の言葉を習うと、倭という名を嫌って、日本と号を改めた。使者は自ら「国が日の出るところに近いので、それを名とした」と言う。あるいは「日本はもともと小国で、倭に併せられたので、その号を奪ったのだ」とも言う。使者が実のままを言わないので、それで疑わしい。また、その国の都は方数千里で、南と西は海に尽き、東と北は大きな山で限られ、その外はすなわち毛人だと、大げさに言った。

6粟田真人

長安元年,其王文武立,改元曰大寶,遣朝臣真人粟田貢方物。朝臣真人者,猶唐尚書也。冠進德冠,頂有華蘤四披,紫袍帛帶。真人好學,能屬文,進止有容。武后宴之麟德殿,授司膳卿,還之。文武死,子阿用立。死,子聖武立,改元曰白龜。開元初,粟田復朝,請從諸儒授經,詔四門助教趙玄默卽鴻臚寺爲師,獻大幅布爲贄,悉賞物貿書以歸。其副朝臣仲滿慕華不肯去,易姓名曰朝衡,歷左補闕,儀王友,多所該識,久乃還。

長安元年、その王の文武が立って年号を大宝と改め、朝臣真人である粟田を遣わして方物を貢がせた。朝臣真人とは、唐の尚書のようなものである。進徳冠をかぶり、頂には花が四方に開いており、紫の袍に帛の帯であった。真人は学を好み、文を作ることができ、立ち居ふるまいに威儀があった。武后は麟徳殿で宴を設け、司膳卿を授けて帰らせた。文武が死ぬと子の阿用が立ち、死ぬと子の聖武が立って、年号を白亀と改めた。開元の初め、粟田がまた朝して、儒者たちに経を授けてもらうことを請うたので、詔して四門助教の趙玄黙を鴻臚寺で師とさせた。幅の広い布を贄として献じ、賜った物はすべて書を買うのに充てて帰った。その副使である朝臣仲満は中華を慕って去ろうとせず、姓名を朝衡と改め、左補闕・儀王友を歴任した。知るところが多く、久しくいてから帰った。

7朝衡と海の道

聖武死,女孝明立,改元曰天平勝寶。天寶十二載,朝衡復入朝,上元中,擢左散騎常侍、安南都護。新羅梗海道,更繇明、越州朝貢。孝明死,大炊立。死,以聖武女高野姬爲王。死,白壁立。建中元年,使者真人興能獻方物。真人,蓋因官而氏者也。興能善書,其紙似蠒而澤,人莫識。貞元末,其王曰桓武,遣使者朝。其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業,歷二十餘年,使者高階真人來請免勢等俱還,詔可。

聖武が死ぬと娘の孝明が立ち、年号を天平勝宝と改めた。天宝十二載、朝衡がまた入朝し、上元年間に左散騎常侍・安南都護に抜擢された。新羅が海の道を塞いだので、明州・越州を経て朝貢することになった。孝明が死ぬと大炊が立ち、死ぬと聖武の娘の高野姫を王とした。死ぬと白壁が立った。建中元年、使者の真人興能が方物を献じた。真人とは、おおむね官によって氏とした者である。興能は書が巧みで、その紙は繭のようで艶があり、人には見分けがつかなかった。貞元の末、その王は桓武といい、使者を遣わして朝した。その留学生の橘免勢(逸勢)と、僧の空海が留まって学業を修めることを願い、二十余年を経て、使者の高階真人が来て免勢たちをともに帰すことを請うたので、詔して許した。

8その後の君主たち

次諾樂立,次嵯峨,次浮和,次仁明。仁明直開成四年,復入貢。次文德,次清和,次陽成。次光孝,直光啟元年。其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王,北距新羅,西北百濟,西南直越州,有絲絮、怪珍云。

次は諾楽(平城)が立ち、次は嵯峨、次は浮和(淳和)、次は仁明である。仁明はちょうど開成四年に当たり、再び入貢した。次は文徳、次は清和、次は陽成である。次の光孝は、ちょうど光啓元年に当たる。その東の海の島の中には、また邪古・波邪・多尼という三人の小王がおり、北は新羅に接し、西北は百済、西南はまっすぐ越州に向かい、糸や綿、珍奇な宝があるという。