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百済国百濟國

宋書 夷蛮伝(宋書に記された夷と蛮の記録) 宋書 夷蠻傳 · 沈約 · 488年(南斉・永明6年) · 段落 3 · 漢字 487字 · 朗読 1.9分

宋書 夷蛮伝(宋書に記された夷と蛮の記録) 全一巻 南朝の宋が見た海の向こうの隣人たち。長寿王高璉の朝貢と馮弘の事件、百済の遼西経略の記事、倭の五王(讃・珍・済・興・武)の表文、そして南海の諸国が仏心から奉った表と慧琳の均善論まで — 5世紀の海路の記録である。

1遼西を領した百済

本與高驪俱在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。

もとは高驪とともに遼東の東、千余里のところにあったが、その後、高驪が遼東を領し、百済が遼西を領した。百済の治めるところを晋平郡晋平県と呼ぶ。

2余氏の王たちの朝貢

義熙十二年,以百濟王餘映為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王。高祖踐阼,進號鎮東大將軍。少帝景平二年,映遣長史張威詣闕貢獻。元嘉二年,太祖詔之曰:「皇帝問使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。累葉忠順,越海効誠,遠王纂戎,聿修先業,慕義既彰,厥懷赤款,浮桴驪水,獻賝執贄,故嗣位方任,以藩東服,勉勗所莅,無墜前蹤。今遣兼謁者閭丘恩子、兼副謁者丁敬子等宣旨慰勞稱朕意。」其後每歲遣使奉表,獻方物。七年,百濟王餘毗復修貢職,以映爵號授之。二十七年,毗上書獻方物,私假臺使馮野夫西河太守,表求易林、式占、腰弩,太祖並與之。毗死,子慶代立。世祖大明元年,遣使求除授,詔許。二年,慶遣使上表曰:「臣國累葉,偏受殊恩,文武良輔,世蒙朝爵。

義熙十二年、百済王の余映を使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王とした。高祖が位に即くと、号を鎮東大将軍に進めた。少帝の景平二年、映は長史の張威を宮門に遣わして貢ぎ物を献じた。元嘉二年、太祖が詔して言った。「皇帝、使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王に問う。幾代にもわたって忠順であり、海を越えて誠を尽くし、遠方の王が軍務を継いで先の業をよく修め、義を慕う心はすでに明らかで、その抱く思いは赤誠である。驪水に筏を浮かべて珍宝を献じ、贄を携えてきた。それゆえ方面の任を継がせ、東の服属の地の藩とする。任ぜられたところに励み、先の跡を落とすことがあってはならない。いま兼謁者の閭丘恩子、兼副謁者の丁敬子らを遣わして朕の意を伝え慰労させる。朕の意にかなうようにせよ。」その後、毎年使者を遣わして上表を奉り、方物を献じた。七年、百済王の余毗がふたたび朝貢の務めを修めたので、映の爵号をこれに授けた。二十七年、毗は書を上して方物を献じ、私に台使の馮野夫を西河太守とし、上表して易林・式占・腰弩を求めたので、太祖はすべてこれを与えた。毗が死んで子の慶が代わって立った。世祖の大明元年、使者を遣わして官位の授与を求めたので、詔して許した。二年、慶は使者を遣わして上表して言った。「臣の国は幾代にもわたり、ひとえに格別の恩を受け、文武の良き輔佐の臣らが代々朝廷の爵を賜ってまいりました。

夾注 1

以百濟王餘映為使持節都督百濟諸軍事鎮東將軍百濟王 「餘映」南史同。通典邊防典作扶餘晪,本注晪音陀典反。

「百済王の余映を使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王とした」の「余映」は南史も同じである。通典の辺防典には扶余晪と記し、その注に、晪の音は陀と典の反切であるとする。

3十一人の官位を請う

行冠軍將軍右賢王餘紀等十一人,忠勤宜在顯進,伏願垂愍,並聽賜除。」仍以行冠軍將軍右賢王餘紀為冠軍將軍。以行征虜將軍左賢王餘昆、行征虜將軍餘暈並為征虜將軍。以行輔國將軍餘都、餘乂並為輔國將軍。以行龍驤將軍沐衿、餘爵並為龍驤將軍。以行寧朔將軍餘流、麋貴並為寧朔將軍。以行建武將軍于西、餘婁並為建武將軍。太宗泰始七年,又遣使貢獻。

行冠軍将軍・右賢王の余紀ら十一人は、忠勤であり、顕わに昇進させるのがふさわしく存じます。伏して願いますに、あわれみを垂れて、みな官位を賜ることをお聞き入れください。」そこで行冠軍将軍・右賢王の余紀を冠軍将軍とし、行征虜将軍・左賢王の余昆と行征虜将軍の余暈をともに征虜将軍とし、行輔国将軍の余都と余乂をともに輔国将軍とし、行龍驤将軍の沐衿と余爵をともに龍驤将軍とし、行寧朔将軍の余流と麋貴をともに寧朔将軍とし、行建武将軍の于西と余婁をともに建武将軍とした。太宗の泰始七年、また使者を遣わして貢ぎ物を献じた。