荊州・雍州の蛮荊、雍州蠻
1荊州・雍州の蛮
槃瓠之後也。分建種落,布在諸郡縣。荊州置南蠻,雍州置寧蠻校尉以領之。世祖初,罷南蠻併大府,而寧蠻如故。蠻民順附者,一戶輸穀數斛,其餘無雜調,而宋民賦役嚴苦,貧者不復堪命,多逃亡入蠻。蠻無傜役,強者又不供官稅,結黨連羣,動有數百千人,州郡力弱,則起為盜賊,種類稍多,戶口不可知也。所在多深險,居武陵者有雄谿、樠谿、辰谿、酉谿、舞谿,謂之五谿蠻。而宜都、天門、巴東、建平、江北諸郡蠻,所居皆深山重阻,人跡罕至焉。前世以來,屢為民患。
槃瓠の後裔である。種族や部落を分けて立て、諸郡県に広がっている。荊州には南蛮校尉を、雍州には寧蛮校尉を置いてこれを統べさせた。世祖の初め、南蛮校尉を廃して大府に併せたが、寧蛮はもとのままであった。素直に服属した蛮の民は、一戸につき穀物数斛を納めるだけで、そのほかの雑税がない。ところが宋の民は賦役が厳しく苦しく、貧しい者は耐えきれず、逃げて蛮の中へ入る者が多かった。蛮には徭役がなく、強い者は官の税も納めず、党を結び群れをつらねると、ともすれば数百人数千人になるので、州や郡の力が弱ければ立って盗賊となる。種族はしだいに多くなって、戸口はもう知ることができない。住むところはおおむね深く険しく、武陵に住む者には雄谿・樠谿・辰谿・酉谿・舞谿があり、これを五谿蛮と呼ぶ。宜都・天門・巴東・建平および江北の諸郡の蛮は、住むところがみな深山の幾重にも閉ざされた地で、人の足跡がまれにしか至らない。前の世以来、たびたび民の患いとなってきた。
夾注 1
居武陵者有雄谿樠谿辰谿酉谿舞谿 「舞谿」南史作「武谿」。
「武陵に住む者には雄谿・樠谿・辰谿・酉谿・舞谿がある」の「舞谿」は、南史には「武谿」とある。
2五つの谿の蛮
少帝景平二年,宜都蠻帥石寧等一百二十三人詣闕上獻。太祖元嘉六年,建平蠻張雍之等五十人,七年,宜都蠻田生等一百一十三人,並詣闕獻見。其後沔中蠻大動,行旅殆絕。天門漊中令宗矯之傜賦過重,蠻不堪命。十八年,蠻田向求等為寇,破漊中,虜略百姓。荊州刺史衡陽王義季遣行參軍曹孫念討破之,獲生口五百餘人,免矯之官。二十四年,南郡臨沮當陽蠻反,縛臨沮令傅僧驥。荊州刺史南譙王義宣遣中兵參軍王諶討破之。
少帝の景平二年、宜都の蛮の帥の石寧ら百二十三人が宮門に参って献上した。太祖の元嘉六年には建平の蛮の張雍之ら五十人、七年には宜都の蛮の田生ら百十三人が、いずれも宮門に参って献上し拝謁した。その後、沔中の蛮が大きく動いて、旅の行き来がほとんど絶えた。天門の漊中令の宗矯之が徭役と賦税を重くしすぎたので、蛮は耐えきれなかった。十八年、蛮の田向求らが略奪を働き、漊中を破って百姓を捕らえ奪ったので、荊州刺史の衡陽王義季が行参軍の曹孫念を遣わして討ち破り、捕虜五百余人を得て、矯之の官を免じた。二十四年、南郡の臨沮・当陽の蛮が叛いて臨沮令の傅僧驥を縛ったので、荊州刺史の南譙王義宣が中兵参軍の王諶を遣わして討ち破った。
夾注 1
天門漊中令宗矯之傜賦過重 「宗矯之」南史、通典邊防典作「宋矯之」。
「天門の漊中令の宗矯之が徭役と賦税を重くしすぎたので」の「宗矯之」は、南史と通典の辺防典には「宋矯之」とある。
3沈慶之の討伐
先是,雍州刺史劉道產善撫諸蠻,前後不附官者,莫不順服,皆引出平土,多緣沔為居。及道產亡,蠻又反叛。及世祖出為雍州,羣蠻斷道,擊大破之。臺遣軍主沈慶之連年討蠻,所向皆平殄,事在慶之傳。二十八年正月,龍山雉水蠻寇抄湼陽縣,南陽太守朱曇韶遣軍討之,失利,殺傷三百餘人,曇韶又遣二千人係之,蠻乃散走。是歲,滍水諸蠻因險為寇,雍州刺史隨王誕遣使說之曰:「頃威懷所被,覃自遐遠,順化者寵祿,逆命者無遺,此亦爾所知也。聖朝今普天肆眚,許以自新,便宜各還舊居,安堵復業,改過革心,於是乎始。」先是,蠻帥魯奴子擄龍山,屢為邊患。魯軌在長社,奴子歸之,軌言於虜主,以為四山王。軌子爽歸國,奴子亦求內附,隨王誕又遣軍討沔北諸蠻,襲濁山、如口、蜀松三柴,剋之,又圍升錢、柏義諸柴,蠻悉力距戰。軍以具裝馬夾射,大破之,斬首二百級,獲生蠻千口,牛馬八十頭。
これより前、雍州刺史の劉道産が諸蛮をよく撫でいたわったので、以前は官に服属しなかった者までみな順って服し、みな平地へ引き出されて、多くは沔水に沿って住んだ。道産が死ぬと、蛮はまた叛いた。世祖が雍州へ出たとき、群蛮が道を断ったので、撃って大いに破った。朝廷は軍主の沈慶之を遣わして、年を重ねて蛮を討たせ、向かうところはみな平らげ滅ぼした。そのことは慶之の伝にある。二十八年正月、龍山雉水の蛮が湼陽県を侵し略奪したので、南陽太守の朱曇韶が軍を遣わして討たせたが、利を失い、死傷者三百余人を出した。曇韶がさらに二千人を遣わして続けさせると、蛮は散り散りに逃げた。この年、滍水の諸蛮が険しい地を頼みに略奪を働いたので、雍州刺史の随王誕が使いを遣わして説いて言った。「このごろ威と恵みの及ぶところは遠くまで広がり、教化に順う者は寵愛と禄を受け、命に逆らう者は残らず討たれる。これはお前たちも知るところである。聖朝はいま天下にあまねく罪を赦して、自ら新たになることを許す。それぞれ旧の住まいに帰り、安んじて生業に復するのがよい。過ちを改め心を入れかえるのは、ここから始まるのだ。」これより前、蛮の帥の魯奴子が龍山を占め、たびたび辺境の患いとなっていた。魯軌が長社にいたとき、奴子はこれに帰属し、軌が虜の主に言って四山王とした。軌の子の爽が国に帰ると、奴子も内附を求めた。随王誕はまた軍を遣わして沔水の北の諸蛮を討たせ、濁山・如口・蜀松の三つの柴を襲ってこれを落とし、さらに升銭・柏義の諸柴を囲んだので、蛮は力を尽くして防ぎ戦った。軍は馬に具足をつけて挟み射ちし、大いに破って、首二百級を斬り、生け捕りの蛮千人と牛馬八十頭を得た。
夾注 1
又圍升錢柏義諸柴 「升錢」南史作「斗錢」,古升斗字,形極相似,易致譌。
「さらに升銭・柏義の諸柴を囲んだ」の「升銭」は、南史には「斗銭」とある。古い升の字と斗の字は形がきわめて似ていて、誤りやすい。
4四郡が空になる
世祖大明中,建平蠻向光侯寇暴峽川,巴東太守王濟、荊州刺史朱修之遣軍討之,光侯走清江。清江去巴東千餘里。時巴東、建平、宜都、天門四郡蠻為寇,諸郡民戶流散,百不存一,太宗、順帝世尤甚,雖遣攻伐,終不能禁,荊州為之虛敝。
世祖の大明の年間、建平の蛮の向光侯が峡川を侵し荒らしたので、巴東太守の王済と荊州刺史の朱修之が軍を遣わして討たせると、光侯は清江へ逃げた。清江は巴東から千余里である。当時、巴東・建平・宜都・天門の四郡の蛮が略奪を働いたので、諸郡の民戸は流れ散って、百に一つも残らなかった。太宗・順帝の世にはいっそうひどく、討伐を遣わしてもついに禁じることができず、荊州はそのために空しく疲れ果てた。
5桂陽と臨賀の反乱
大明中,桂陽蠻反,殺荔令晏珍之,臨賀蠻反,殺開建令邢伯兒,振武將軍蕭沖之討之,獲少費多,抵罪。
大明の年間、桂陽の蛮が叛いて荔令の晏珍之を殺し、臨賀の蛮が叛いて開建令の邢伯児を殺したので、振武将軍の蕭沖之が討ったが、得るものは少なく費えが多く、罪に問われた。
夾注 1
殺開建令邢伯兒 「開建」各本並作「關建」,據州郡志改。按湘州臨慶郡有開建縣。
「開建令の邢伯児を殺した」の「開建」は、各版本ではみな「関建」となっているが、州郡志によって改めた。湘州の臨慶郡に開建県がある。