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豫州の蛮豫州蠻

宋書 夷蛮伝(宋書に記された夷と蛮の記録) 宋書 夷蠻傳 · 沈約 · 488年(南斉・永明6年) · 段落 3 · 漢字 509字 · 朗読 2.0分

宋書 夷蛮伝(宋書に記された夷と蛮の記録) 全一巻 南朝の宋が見た海の向こうの隣人たち。長寿王高璉の朝貢と馮弘の事件、百済の遼西経略の記事、倭の五王(讃・珍・済・興・武)の表文、そして南海の諸国が仏心から奉った表と慧琳の均善論まで — 5世紀の海路の記録である。

1五つの水の蛮

廩君後也。盤瓠及廩君事,並具前史。西陽有巴水、蘄水、希水、赤亭水、西歸水,謂之五水蠻,所在並深岨,種落熾盛,歷世為盜賊。北接淮、汝,南極江、漢,地方數千里。

廩君の後裔である。盤瓠と廩君のことは、いずれも先の史書に詳しく記されている。西陽には巴水・蘄水・希水・赤亭水・西帰水があり、これを五水蛮と呼ぶ。住むところはみな深く険しく、種族や部落は盛んで、代々盗賊となってきた。北は淮水・汝水に接し、南は長江・漢水に至り、土地は四方数千里に及ぶ。

2司馬黒石の乱

元嘉二十八年,西陽蠻殺南川令劉臺,并其家口。二十九年,新蔡蠻二千餘人破大雷戍,略公私船舫,悉引入湖。有亡命司馬黑石在蠻中,共為寇盜。太祖遣太子步兵校尉沈慶之率江、荊、雍、豫諸州軍討之。世祖大明四年,又遣慶之討西陽蠻,大剋獲而反。司馬黑石徒黨三人,其一人名智,黑石號曰「太公」,以為謀主;一人名安陽,號譙王;一人名續之,號梁王。蠻文小羅等討禽續之,為蠻世財所篡,小羅等相率斬世財父子六人。豫州刺史王玄謨遣殿中將軍郭元封慰勞諸蠻,使縛送亡命,蠻乃執智黑石、安陽二人送詣玄謨,世祖使於壽陽斬之。

元嘉二十八年、西陽の蛮が南川令の劉台を殺し、その家族までも殺した。二十九年、新蔡の蛮二千余人が大雷の戍を破り、公私の船を略奪して、ことごとく湖へ引き入れた。亡命していた司馬黒石が蛮の中にいて、ともに略奪を働いた。太祖は太子歩兵校尉の沈慶之を遣わし、江・荊・雍・豫の諸州の軍を率いてこれを討たせた。世祖の大明四年、また慶之を遣わして西陽の蛮を討たせ、大いに勝って捕らえて帰った。司馬黒石の徒党三人のうち、一人は名を智といい、黒石は「太公」と呼んで謀りごとの主とし、一人は名を安陽といい、譙王と呼び、一人は名を続之といい、梁王と呼んだ。蛮の文小羅らが討って続之を捕らえたが、蛮の世財に奪われたので、小羅らは相い率いて世財父子六人を斬った。豫州刺史の王玄謨は殿中将軍の郭元封を遣わして諸蛮を慰労し、亡命の者を縛って送らせたので、蛮は智黒石・安陽の二人を捕らえて玄謨のもとに送り、世祖は寿陽でこれを斬らせた。

夾注 2

蠻文小羅等討禽續之 「文小羅」南史作「文山羅」。

「蛮の文小羅らが討って続之を捕らえた」の「文小羅」は、南史には「文山羅」とある。

蠻乃執智黑石安陽二人送詣玄謨 「智黑石安陽二人」南史作「智安陽二人」,疑當從南史。上云司馬黑石徒黨三人,一人名智,一人名安陽,一人名續之。此祇言二人,則從南史作「智、安陽二人」為是,若從宋書,則是三人,非二人。且司馬黑石時為其主,史列黑石之名,亦不當在智之後,疑「黑石」二字是衍文。

「蛮は智黒石・安陽の二人を捕らえて玄謨のもとに送った」 — 「智黒石安陽の二人」は南史には「智・安陽の二人」とあり、南史に従うべきであろう。上に司馬黒石の徒党三人といい、一人は智、一人は安陽、一人は続之とある。ここで二人と言うのなら、南史のとおり「智・安陽の二人」とするのが正しい。宋書のとおりなら三人であって二人ではない。また司馬黒石はそのとき彼らの主であったのだから、史書が黒石の名を智の後に置くはずもなく、「黒石」の二字は衍文であろう。

3義兵を挙げた蛮たち

太宗初即位,四方反叛,及南賊敗於鵲尾,西陽蠻田益之、田義之、成邪財、田光興等起義攻郢州,剋之。以益之為輔國將軍,都統四山軍事,又以蠻戶立宋安、光城二郡,以義之為宋安太守,光興為龍驤將軍、光城太守。封益之邊城縣王,食邑四百一十一戶,成邪財陽城縣王,食邑三千戶,益之徵為虎賁中郎將,將軍如故。順帝昇明初,又轉射聲校尉、冠軍將軍。成邪財死,子婆思襲爵,為輔國將軍、武騎常侍。晉熙蠻梅式生亦起義,斬晉熙太守閻湛之、晉安王子勛典籤沈光祖,封高山侯,食所統牛崗、下柴二村三十戶。

太宗が即位したばかりのころ、四方が叛いたが、南賊が鵲尾で敗れると、西陽の蛮の田益之・田義之・成邪財・田光興らが義兵を挙げて郢州を攻め、これを落とした。益之を輔国将軍・都統四山軍事とし、また蛮の戸をもって宋安・光城の二郡を立て、義之を宋安太守、光興を龍驤将軍・光城太守とした。益之を辺城県王に封じて食邑四百十一戸、成邪財を陽城県王に封じて食邑三千戸とした。益之は召されて虎賁中郎将となり、将軍はもとのままであった。順帝の昇明の初め、また射声校尉・冠軍将軍に移った。成邪財が死ぬと、子の婆思が爵を継いで輔国将軍・武騎常侍となった。晋熙の蛮の梅式生も義兵を挙げ、晋熙太守の閻湛之と晋安王子勛の典籤の沈光祖を斬ったので、高山侯に封じられ、統べていた牛崗・下柴の二村三十戸を食邑として受けた。

夾注 3

太宗初即位 「太宗」各本並作「世宗」,按宋無「世宗」,南史作明帝,則宋書當云太宗,今改正。

「太宗が即位したばかりのころ」の「太宗」は、各版本ではみな「世宗」となっている。宋には世宗がなく、南史には明帝とあるので、宋書は太宗とすべきであり、いま改め正した。

都統四山軍事 「事」各本並作「人」,據南史改。

「都統四山軍事」の「事」は、各版本ではみな「人」となっているが、南史によって改めた。

斬晉熙太守閻湛之晉安王子勛典籤沈光祖 「沈光祖」各本並作「沈光明祖」。孫虨宋書考論云:「自序篇見晉安王子勛典籤沈光祖,此衍明字。」

「晋熙太守の閻湛之と晋安王子勛の典籤の沈光祖を斬った」の「沈光祖」は、各版本ではみな「沈光明祖」となっている。孫虨の宋書考論に「自序篇に晋安王子勛の典籤の沈光祖が見えるから、ここの明の字は衍字である」とある。