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百済百濟

隋書 東夷伝(隋書に記された東夷の記録) 隋書 東夷傳 · 魏徴ほか · 636年(唐・貞観10年) · 段落 8 · 漢字 1,033字 · 朗読 4.1分

隋書 東夷伝(隋書に記された東夷の記録) 全一巻 隋が見た東方の六か国 — 高麗・百済・新羅・靺鞨・流求・倭。隋の文帝が高句麗に送った璽書と、倭王が送った「日の出る処の天子、日の没する処の天子に」の国書が併せて収められている。薩水の大勝で終わった三度の遠征についての中国側の記録である。

1東明と仇台

百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之。婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王捨之。後遂生一男,棄之廁溷,久而不死,以為神,命養之,名曰東明。及長,高麗王忌之,東明懼,逃至淹水,夫餘人共奉之。東明之後,有仇台者,篤於仁信,始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,漸以昌盛,為東夷強國。初以百家濟海,因號百濟。歷十餘代,代臣中國,前史載之詳矣。開皇初,其王餘昌遣使貢方物,拜昌為上開府、帶方郡公、百濟王。

百済の先祖は高麗国から出た。その国王に一人の侍女があり、突然身ごもったので、王は殺そうとした。侍女は「鶏の卵のような形のものが来て私に感じたので、身ごもったのです」と言った。王はこれを許した。後にとうとう男の子を産み、便所に捨てたが、長く経っても死なないので、神だと考え、育てるよう命じて、名を東明といった。成長すると高麗王はこれを忌んだので、東明は恐れて淹水まで逃げ、夫余の人々がともにこれを奉じた。

東明の後裔に仇台という者があり、仁と信に篤く、はじめて帯方の故地にその国を立てた。漢の遼東太守の公孫度が娘を妻とさせたので、次第に昌え盛んになり、東夷の強国となった。はじめ百家をもって海を済ったので、百済と号した。十余代を経て、代々中国に臣として仕え、前の史書にそれが詳しく載っている。

開皇の初め、その王の余昌(威徳王)が使者を遣わして土地の産物を献じたので、昌に上開府・帯方郡公・百済王を授けた。

2十六品と五部

其國東西四百五十里,南北九百餘里,南接新羅,北拒高麗。其都曰居拔城。官有十六品:長曰左平,次大率,次恩率,次德率,次杅率,次奈率,次將德,服紫帶;次施德,皂帶;次固德,赤帶;次李德,青帶;次對德以下,皆黃帶;次文督,次武督,次佐軍,次振武,次剋虞,皆用白帶。其冠制並同,唯奈率以上飾以銀花。長史三年一交代。畿內為五部,部有五巷,士人居焉。五方各有方領一人,方佐貳之。方有十郡,郡有將。其人雜有新羅、高麗、倭等,亦有中國人。其衣服與高麗略同。婦人不加粉黛,女辮髮垂後,已出嫁則分為兩道,盤於頭上。

その国は東西四百五十里、南北九百余里で、南は新羅に接し、北は高麗に対している。その都を居拔城という。

官には十六品がある。最上を左平といい、次が大率、次が恩率、次が徳率、次が杅率、次が奈率、次が将徳で、ここまでは紫の帯を着ける。次の施徳は黒の帯、次の固徳は赤の帯、次の季徳は青の帯、次の対徳以下はみな黄の帯、次が文督、次が武督、次が佐軍、次が振武、次が剋虞で、みな白の帯を用いる。冠の制はいずれも同じだが、ただ奈率以上は銀の花で飾る。長史は三年に一度交代する。

畿内は五部とし、部には五つの巷があって、士人が住む。五方にはそれぞれ方領一人がいて、方佐がこれに次ぐ。方には十の郡があり、郡には将がいる。

その人々には新羅・高麗・倭などが混じっており、中国人もいる。衣服は高麗とおおむね同じである。婦人は白粉や眉墨をつけず、娘は髪を編んで後ろに垂らし、嫁いだ後は二筋に分けて頭の上に巻く。

夾注 4

左平 通典一八五作「左率」。

「左平」は『通典』巻百八十五には「左率」とある。

李德 北史百濟傳作「季德」。

「李德」は『北史』百済伝には「季德」とある。

次對德以下皆黃帶次文督 北史百濟傳,「皆黃帶」在「次文督」下。

「次對德以下皆黃帶次文督」 — 『北史』百済伝では「皆黃帶」が「次文督」の後にある。

其人雜有新羅高麗倭等 「倭」原作「俀」。按:古從「委」和從「妥」的字,有時可以通用。如「桵」或作「㮃」,「緌」或作「綏」。「俀」應是「倭」字的別體。本書煬帝紀上作「倭」。本卷和他處作「俀」者,今一律改為「倭」。

「倭」はもと「俀」とある。思うに、古く「委」に従う字と「妥」に従う字は、ときに通用した。「桵」を「㮃」とも書き、「緌」を「綏」とも書くのと同じである。「俀」は「倭」の字の別体であろう。本書の煬帝紀上には「倭」とある。本巻および他の箇所で「俀」とあるものは、いま一律に「倭」と改めた。

3八つの大姓と風俗

俗尚騎射,讀書史,能吏事,亦知醫藥、蓍龜、占相之術。以兩手據地為敬。有僧尼,多寺塔。有鼓角、箜篌、箏、竽、箎、笛之樂,投壺、圍棊、樗蒲、握槊、弄珠之戲。行宋元嘉曆,以建寅月為歲首。國中大姓有八族,沙氏、燕氏、刕氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苩氏。婚娶之禮,略同於華。喪制如高麗。有五穀、牛、猪、雞,多不火食。厥田下濕,人皆山居。有巨栗。每以四仲之月,王祭天及五帝之神。並其始祖仇台廟於國城,歲四祠之。國西南人島居者十五所,皆有城邑。

風俗は騎射を尊び、経書や史書を読み、吏の仕事に通じ、医薬や蓍亀の占い、人相を見る術も知っている。両手を地につけるのを敬意とする。僧と尼があり、寺や塔が多い。鼓角・箜篌・箏・竽・箎・笛の楽があり、投壺・囲碁・樗蒲・握槊・弄珠の遊びがある。宋の元嘉暦を行い、建寅の月を年の初めとする。

国中の大姓には八族があり、沙氏・燕氏・刕氏・解氏・貞氏・国氏・木氏・苩氏である。婚姻の礼はおおむね中国と同じで、喪の制は高麗と同じである。五穀と牛・豚・鶏があり、多くは火を通さずに食べる。その田は低く湿っているので、人はみな山に住む。大きな栗が採れる。

四季それぞれの仲の月ごとに、王が天と五帝の神を祭り、あわせてその始祖の仇台の廟を都城に置いて、年に四度これを祀る。国の西南に人が島に住む所が十五か所あり、いずれも城邑がある。

夾注 1

苩氏 「苩」原作「苗」,據通典一八五改。

「苩」はもと「苗」とあるが、『通典』巻百八十五によって改めた。

4漂流船を送り返す

平陳之歲,有一戰船漂至海東𨈭牟羅國,其船得還,經于百濟,昌資送之甚厚,并遣使奉表賀平陳。高祖善之,下詔曰:「百濟王既聞平陳,遠令奉表,往復至難,若逢風浪,便致傷損。百濟王心迹淳至,朕已委知。相去雖遠,事同言面,何必數遣使來相體悉。自今以後,不須年別入貢,朕亦不遣使往,王宜知之。」使者舞蹈而去。

陳を平定した年、一隻の戦船が海の東の耽牟羅国に漂着した。その船が帰ることができて百済を経たとき、昌は物資を与えてたいへん厚く送り、あわせて使者を遣わして表を奉り、陳の平定を祝った。高祖はこれを善しとして、詔を下した。

「百済王は陳を平定したと聞いて、遠くから表を奉らせた。往き来はきわめて難しく、もし風浪に遭えばたちまち損なわれるだろう。百済王の心の跡が純朴で至っていることは、朕がすでによく知っている。たがいの隔たりは遠くても、事は顔を合わせて語るのと同じである。どうして必ずしもたびたび使者を遣わして来させ、たがいに知り尽くす必要があろうか。今より後は、年ごとに別に入貢する必要はなく、朕もまた使者を遣わさない。王はこれを心得よ。」

使者は舞踏して去った。

5軍の道案内を願う

開皇十八年,昌使其長史王辯那來獻方物,屬興遼東之役,遣使奉表,請為軍導。帝下詔曰:「往歲為高麗不供職貢,無人臣禮,故命將討之。高元君臣恐懼,畏服歸罪,朕已赦之,不可致伐。」厚其使而遣之。高麗頗知其事,以兵侵掠其境。

開皇十八年、昌はその長史の王辯那に命じて来て土地の産物を献じさせた。ちょうど遼東の役が起こった時であったので、使者を遣わして表を奉り、軍の道案内となることを願った。帝は詔を下した。「先の年、高麗が職貢を供えず、臣下の礼がなかったので、将に命じてこれを討たせた。高元の君臣は恐れおののき、畏れ服して罪を認めたので、朕はすでにこれを赦した。討伐するわけにはいかない。」その使者を厚くもてなして帰した。高麗はその事をかなり知って、兵をもってその国境を侵し略した。

6昌が死んで璋が立つ

昌死,子餘宣立,死,子餘璋立。

昌が死んで子の余宣が立ち、死ぬと子の余璋(武王)が立った。

7内では高麗と通じる

大業三年,璋遣使者燕文進朝貢。其年,又遣使者王孝鄰入獻,請討高麗。煬帝許之,令覘高麗動靜。然璋內與高麗通和,挾詐以窺中國。七年,帝親征高麗,璋使其臣國智牟來請軍期。帝大悅,厚加賞錫,遣尚書起部郎席律詣百濟,與相知。明年,六軍渡遼,璋亦嚴兵於境,聲言助軍,實持兩端。尋與新羅有隙,每相戰爭。十年,復遣使朝貢。後天下亂,使命遂絕。

大業三年、璋は使者の燕文進を遣わして朝貢した。その年、また使者の王孝鄰を遣わして献上し、高麗を討つことを願った。煬帝はこれを許し、高麗の動静を窺わせた。しかし璋は内では高麗と和を通じ、偽りを抱いて中国を窺っていた。

七年、帝が自ら高麗を征すると、璋はその臣の国智牟を遣わして出兵の時期を尋ねさせた。帝は大いに喜んで賞賜を厚く加え、尚書起部郎の席律を百済に遣わして、たがいに連絡を取らせた。翌年、六軍が遼水を渡ると、璋も国境に兵を厳しく備えて、軍を助けると言いながら、実は両方に心を置いていた。やがて新羅と隙が生じ、つねにたがいに戦った。

十年、ふたたび使者を遣わして朝貢したが、その後天下が乱れて、使者の往来はついに絶えた。

8耽牟羅国

其南海行三月,有𨈭牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多麞鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云。

その南へ海路三か月行くと耽牟羅国があり、南北千余里、東西数百里で、土地には麞や鹿が多く、百済に従属している。百済から西へ三日行くと貊国に至るという。