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烏丸

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 三國志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳 · 陳寿、注釈 裴松之 · 3世紀末(注は429年) · 段落 8 · 漢字 2,104字 · 朗読 8.4分

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 烏丸・鮮卑 中国の人が周りの国を記した最も古い記録。夫余・高句麗・沃沮・邑婁・濊・三韓・倭人がここに初めて現れる。同じ筆が北の烏丸・鮮卑と西の大秦(ローマ)までを一巻に記しており、当時の中国が他者をどのような尺度で分けて見ていたかも併せて明らかになる。

1『魏書』に記された烏丸の風俗 — 若い者を貴ぶ

《魏書》曰:烏丸者,東胡也。漢初,匈奴冒頓滅其國,餘類保烏丸山,因以爲號焉。俗善騎射,隨水草放牧,居無常處,以穹廬爲宅,皆東向。日弋獵禽獸,食肉飲酪,以毛毳爲衣。貴少賤老,其性悍驁,怒則殺父兄,而終不害其母,以母有族類,父兄以己爲種,無復報者故也。常推募勇健能理決鬥訟相侵犯者爲大人,邑落各有小帥,不世繼也。數百千落自爲一部,大人有所召呼,刻木爲信,邑落傳行,無文字,而部衆莫敢違犯。氏姓無常,以大人健者名字爲姓。大人已下,各自畜牧治產,不相徭役。其嫁娶皆先私通,略將女去,或半歲百日,然後遣媒人送馬牛羊以爲聘娶之禮。婿隨妻歸,見妻家無尊卑,旦起皆拜,而不自拜其父母。爲妻家僕役二年,妻家乃厚遣送女,居處財物,一出妻家。故其俗從婦人計,至戰鬥時,乃自決之。父子男女,相對蹲踞,悉髡頭以爲輕便。婦人至嫁時乃養發,分爲髻,著句決,飾以金碧,猶中國有冠步搖也。

『魏書』にいう。烏丸は東胡である。漢の初め、匈奴の冒頓がその国を滅ぼしたので、残った者たちが烏丸山に拠った。それでこれを名とした。

風俗として馬に乗り弓を射ることに長け、水と草を追って放牧し、住む所は定まっていない。穹廬を家とし、どれも東を向いている。日ごとに鳥や獣をいぐるみで狩り、肉を食べ乳を飲み、毛で衣を作って着る。

若い者を貴び、老いた者を軽んじる。その性は荒く激しく、怒れば父や兄を殺しても、最後まで母を害することはない。母には同族の者がいるが、父や兄は自分と同じ血筋とされ、ほかに仇を返す者がいないからである。

つねに勇猛で強く、争いや訴え、互いの侵しをよく裁き決められる者を推して大人とし、邑落ごとに小帥を置くが、代々世襲はしない。数百から数千の落が自ら一つの部をなす。大人が呼び集めることがあれば、木に刻みを入れて証とし、邑落を次々に回して伝えるので、文字がなくても部の衆は誰も背こうとしない。

氏や姓は定まっておらず、大人のうち強い者の名を姓とする。大人より下の者は、それぞれ家畜を飼い暮らしを立て、互いに賦役を課すことはない。

婚姻はいずれもまず私かに通じ、女を連れ去ってから、半年か百日ほど経って仲人を遣わし、馬や牛や羊を送ることを嫁取りの礼とする。婿は妻に従って帰り、妻の家の者に会えば身分の上下を問わず、朝起きて皆に拝礼するが、自分の父母には拝礼しない。妻の家で二年の下働きをすると、妻の家はそこで手厚く娘を送り出すので、住む家も財物もすべて妻の家から出る。それゆえその風俗は女の考えに従い、戦うときになって初めて自ら決める。

父と子、男と女が向かい合ってうずくまって座る。皆髪を剃り落として身軽にしている。女は嫁ぐ時になって初めて髪を伸ばし、分けて髷を結い、句決をつけ、金や玉で飾る。中国に冠や歩搖があるのと同じである。

2死者の魂を犬が赤山へ連れて行く

父兄死,妻後母執嫂;若無執嫂者,則己子以親之次妻伯叔焉,死則歸其故夫。俗識鳥獸孕乳,時以四節,耕種常用布穀鳴爲候。地宜青穄、東牆,東牆似蓬草,實如葵子,至十月熟。能作白酒,而不知作麹蘖。米常仰中國。大人能作弓矢鞍勒,鍛金鐵爲兵器,能刺韋作文繡,織縷氈毼。有病,知以艾灸,或燒石自熨,燒地臥上,或隨痛病處,以刀決脈出血,及祝天地山川之神,無針藥。貴兵死,斂屍有棺,始死則哭,葬則歌舞相送。肥養犬,以采繩嬰牽,並取亡者所乘馬、衣物、生時服飾,皆燒以送之。特屬累犬,使護死者神靈歸乎赤山。赤山在遼東西北數千里,如中國人以死之魂神歸泰山也。至葬日,夜聚親舊員坐,牽犬馬曆位,或歌哭者,擲肉與之。使二人口頌咒文,使死者魂神徑至,歷險阻,勿令橫鬼遮護,達其赤山,然後殺犬馬衣物燒之。敬鬼神,祠天地日月星辰山川,及先大人有健名者,亦同祠以牛羊,祠畢皆燒之。

父や兄が死ねば、後妻となっていた母を妻とし、兄嫁を引き取る。もし兄嫁を引き取る者がなければ、その子が親しさの順に従って伯父や叔父の妻を妻とし、その者が死ねばもとの夫のもとへ帰す。

風俗として鳥や獣が子を孕み乳を飲ませるのを見て四季を知り、耕して種を播くのはつねに郭公の鳴き声を時のしるしとする。土地には青穄と東牆が適している。東牆は蓬に似て、実は葵の種のようで、十月に熟す。白酒を作ることはできるが、麹を作る法は知らない。米はつねに中国に頼る。

大人は弓矢や鞍や手綱を作ることができ、鉄を打って武器を作り、革に縫い取りをし、糸を織って毛織物を作る。

病があれば艾で灸をすえることを知っており、あるいは石を焼いて体に当て、地を焼いてその上に臥せ、あるいは痛む所に応じて刀で脈を切って血を出し、天地や山川の神に祈る。鍼や薬はない。

戦って死ぬことを貴ぶ。遺体を納めるのに棺を用い、死んだばかりの時は哭し、葬るときは歌い舞って送る。犬を肥えさせて飼い、彩りの縄でつないで引き、あわせて死者が乗っていた馬や衣類、生きていた時の装いをすべて焼いて送る。とりわけ犬に重ねて頼み、死者の魂を守って赤山へ帰らせる。赤山は遼東の西北数千里にあり、中国の人が死者の魂は泰山へ帰ると言うのと同じである。

葬る日になると、夜に親族や旧友が集まって輪になって座り、犬と馬を引いて席を回らせ、歌う者や哭く者に肉を投げ与える。二人に呪文を唱えさせ、死者の魂がまっすぐに進んで険しい所を越え、悪しき鬼に遮られることなく赤山に辿り着けるようにしてから、犬と馬を殺し、衣類とともに焼く。

鬼神を敬い、天地・日月・星辰・山川に祭り、先代の大人のうち強い名のあった者も同じく牛や羊で祭り、祭りが終わればすべて焼く。

3匈奴に抑えられ、のちにその墓を掘る

飲食必先祭。其約法,違大人言死,盜不止死。其相殘殺,令都落自相報,相報不止,詣大人平之,有罪者出其牛羊以贖死命,乃止。自殺其父兄無罪。其亡叛爲大人所捕者,諸邑落不肯受,皆逐使至雍狂地。地無山,有沙漠、流水、草木,多蝮蛇,在丁令之西南,烏孫之東北,以窮困之。自其先爲匈奴所破之後,人衆孤弱,爲匈奴臣服,常歲輸牛馬羊,過時不具,輒虜其妻子。至匈奴壹衍鞮單于時,烏丸轉強,發掘匈奴單于塚,將以報冒頓所破之恥。壹衍鞮單于大怒,發二萬騎以擊烏丸。大將軍霍光聞之,遣度遼將軍范明友將三萬騎出遼東追擊匈奴。比明友兵至,匈奴已引去。烏丸新被匈奴兵,乘其衰弊,遂進擊烏丸,斬首六千餘級,獲三王首還。後數復犯塞,明友輒征破之。至王莽末,並與匈奴爲寇。光武定天下,遣伏波將軍馬援將三千騎,從五原關出塞征之,無利,而殺馬千餘匹。

飲み食いするときは必ず先に祭る。その定めた法では、大人の言に背けば死、盗みをやめなければ死である。互いに殺し合えば、その邑落どうしで自ら報復させ、報復がやまなければ大人のもとへ出て裁いてもらい、罪ある者が牛や羊を出して死ぬべき命の代わりとすれば、そこでやむ。自分の父や兄を殺した者には罪がない。

逃げ背いて大人に捕らえられた者は、どの邑落も受け入れようとせず、皆で追って雍狂の地に至らせる。その地には山がなく、砂漠と流れる水と草木があり、蝮が多い。丁令の西南、烏孫の東北にあって、それによって窮し苦しませるのである。

その先祖が匈奴に破られてから後、人の数は孤り少なく弱く、匈奴に臣従して、つねに年ごとに牛や馬や羊を納めたが、時を過ぎても揃えられなければ、そのたびにその妻子を捕らえて行った。匈奴の壹衍鞮単于の時になって烏丸は次第に強くなり、匈奴の単于の墓を掘り返して、冒頓に破られた恥を返そうとした。

壹衍鞮単于は大いに怒り、二万騎を出して烏丸を討った。大将軍の霍光はこれを聞き、度遼将軍の范明友を遣わして三万騎を率い、遼東へ出て匈奴を追撃させた。明友の軍が着くころ、匈奴はすでに引き去っていた。烏丸は匈奴の軍を受けたばかりだったので、その衰え疲れたところに乗じ、そのまま進んで烏丸を討ち、六千余の首を斬り、三人の王の首を得て帰った。

のちにたびたび再び塞を犯したが、明友はそのたびに討ち破った。王莽の末年に至って、匈奴とともに荒らし回った。光武帝が天下を平定し、伏波将軍の馬援を遣わして三千騎を率い、五原関から塞を出て討たせたが、利はなく、馬千余匹を失っただけであった。

4漢の内に入って住むようになる

烏丸遂盛,鈔擊匈奴,匈奴轉徙千里,漠南地空。建武二十五年,烏丸大人郝旦等九千餘人率衆詣闕,封其渠帥爲侯王者八十餘人,使居塞內,布列遼東屬國、遼西、右北平、漁陽、廣陽、上穀、代郡、雁門、太原、朔方諸郡界,招來種人,給其衣食,置校尉以領護之,遂爲漢偵備,擊匈奴、鮮卑。至永平中,漁陽烏丸大人欽志賁帥種人叛,鮮卑還爲寇害,遼東太守祭肜募殺志賁,遂破其衆。至安帝時,漁陽、右北平、雁門烏丸率衆王無何等復與鮮卑、匈奴合,鈔略代郡、上穀、涿郡、五原,乃以大司農何熙行車騎將軍,左右羽林五營士,發緣邊七郡黎陽營兵合二萬人擊之。匈奴降,鮮卑、烏丸各還塞外。是後,烏丸稍復親附,拜其大人戎末廆爲都尉。至順帝時,戎末廆率將王侯咄歸、去延等從烏丸校尉耿曄出塞擊鮮卑有功,還皆拜爲率衆王,賜束帛。

烏丸はついに盛んになり、匈奴を襲い討ったので、匈奴は千里を移り、漠南の地は空になった。

建武二十五年、烏丸の大人である郝旦ら九千余人が衆を率いて朝廷に参内した。その渠帥八十余人を侯や王に封じ、塞の内に住まわせて、遼東属国・遼西・右北平・漁陽・広陽・上谷・代郡・雁門・太原・朔方の諸郡の境に並べ置いた。自らの族の者を招き寄せ、衣と食を給し、校尉を置いて率い守らせたので、ついに漢のために斥候となり守りとなって、匈奴や鮮卑を討った。

永平年間に至って、漁陽の烏丸の大人である欽志賁が自らの族を率いて背き、鮮卑が再び荒らして害をなしたので、遼東太守の祭肜が人を募って志賁を殺させ、ついにその衆を破った。

安帝の時に至って、漁陽・右北平・雁門の烏丸の率衆王である無何らが再び鮮卑・匈奴と合わさり、代郡・上谷・涿郡・五原を荒らしたので、大司農の何熙に車騎将軍の任を代行させ、左右の羽林五営の兵と、辺境沿いの七郡の黎陽営の兵、あわせて二万人でこれを討った。匈奴は降り、鮮卑と烏丸はそれぞれ塞の外へ帰った。

この後、烏丸は次第に再び親しく従うようになり、その大人である戎末廆を都尉とした。順帝の時に至って、戎末廆が王侯の咄歸・去延らを率いて烏丸校尉の耿曄に従い、塞を出て鮮卑を討って功があったので、帰ってから皆率衆王とされ、束ねた絹を賜った。

5漢末の四人の大人

漢末,遼西烏丸大人丘力居,衆五千餘落,上谷烏丸大人難樓,衆九千餘落,各稱王,而遼東屬國烏丸大人蘇僕延,衆千餘落,自稱峭王,右北平烏丸大人烏延,衆八百餘落,自稱汗魯王,皆有計策勇健。中山太守張純叛入丘力居衆中,自號彌天安定王,爲三郡烏丸元帥,寇略青、徐、幽、冀四州,殺略吏民。靈帝末,以劉虞爲州牧,募胡斬純首,北州乃定。後丘力居死,子樓班年小,從子蹋頓有武略,代立,總攝三王部,衆皆從其教令。袁紹與公孫瓚連戰不決,蹋頓遣使詣紹求和親,助紹擊瓚,破之。紹矯制賜蹋頓、峭王、汗魯王印綬,皆以爲單于。

漢末、遼西の烏丸の大人である丘力居は衆五千余落、上谷の烏丸の大人である難樓は衆九千余落で、それぞれ王と称した。遼東属国の烏丸の大人である蘇僕延は衆千余落で自ら峭王と称し、右北平の烏丸の大人である烏延は衆八百余落で自ら汗魯王と称した。いずれも策があり勇猛で強かった。

中山太守の張純が背いて丘力居の衆の中に入り、自ら彌天安定王と号して三郡の烏丸の元帥となり、青州・徐州・幽州・冀州の四州を荒らし奪って、役人や民を殺し捕らえた。霊帝の末、劉虞を州牧として胡を募らせ張純の首を斬らせたので、北の州はここに平定された。

のちに丘力居が死んだが、子の樓班は年が幼く、甥の蹋頓に武略があったので代わって立ち、三人の王の部を統べ率いたので、衆は皆その教えと命令に従った。袁紹は公孫瓚と戦い続けて決着がつかず、蹋頓は使者を遣わして袁紹のもとへ和親を求め、袁紹を助けて公孫瓚を討ち、これを破った。袁紹は詔を偽って蹋頓・峭王・汗魯王に印綬を与え、皆を単于とした。

夾注 1

難

本によっては、ここに「難」の字がもう一つある。

6袁紹が三人の王に下した文

《英雄記》曰:紹遣使即拜烏丸三王爲單于,皆安車、華蓋、羽旄、黃屋、左纛。版文曰:「使持節大將軍督幽、青、並領冀州牧阮鄉侯紹,承制詔遼東屬國率衆王頒下、烏丸遼西率衆王蹋頓、右北平率衆王汗盧維:乃祖慕義遷善,款塞內附,北捍玁狁,東拒濊貊,世守北陲,爲百姓保障,雖時侵犯王略,命將徂征厥罪,率不旋時,悔愆變改,方之外夷,最又聰惠者也。始有千夫長、百夫長以相統領,用能悉乃心,克有勳力於國家,稍受王侯之命。自我王室多故,公孫瓚作難,殘夷厥土之君,以侮天慢主,是以四海之內,並執干戈以衛社稷。三王奮氣裔土,忿奸憂國,控弦與漢兵爲表裏,誠甚忠孝,朝所嘉焉。然而虎兕長蛇,相隨塞路,王官爵命,否而無聞。夫有勳不賞,俾勤者怠。今遣行謁者楊林,齎單于璽綬車服,以對爾勞。其各綏靜部落,教以謹慎,無使作凶作慝。世復爾祀位,長爲百蠻長。厥有咎有不臧者,泯於爾祿,而喪於乃庸,可不勉乎!烏桓單于都護部衆,左右單于受其節度,他如故事。」

『英雄記』にいう。袁紹は使者を遣わしてそのまま烏丸の三人の王を単于とし、皆に安車・華蓋・羽旄・黄屋・左纛を与えた。その版文にいう。

「使持節大将軍として幽州・青州・并州を監督し、冀州牧を兼ねる阮郷侯の紹は、制を承けて、遼東属国の率衆王である頒下、烏丸遼西の率衆王である蹋頓、右北平の率衆王である汗盧維に詔する。

お前たちの祖父は義を慕い善に移って、塞を叩いて内に附き、北では玁狁を防ぎ、東では濊貊を退け、代々北の辺りを守って民の盾となった。時に王の治めを侵すことがあり、将に命じてその罪を討たせたこともあったが、おおむね時の巡らぬうちに過ちを悔いて改めたのだから、外の夷に比べれば最も聡く賢い者である。

初めに千夫長・百夫長を置いて互いに統べさせたので、よくお前たちの心を尽くして国家に功と力があり、次第に王や侯の命を受けた。

わが王室に事が多くなってから、公孫瓚が乱を起こしてその地の君を害し、天を侮り主を侮った。そのために四海の内がともに干と戈を執って社稷を守った。三人の王は辺りの地で気を奮い、奸なる者に憤り国を憂えて、弓を引いて漢の兵と内と外になった。まことに忠孝が篤く、朝廷の嘉するところである。

しかし虎や兕や長い蛇が次々に道を塞いで、王の官爵の命が阻まれて届かなかった。およそ功があるのに賞されなければ、勤める者を怠けさせる。いま行謁者の楊林を遣わし、単于の璽綬と車と衣服を持たせて、お前たちの労に報いさせる。

それぞれ部落を鎮めて静め、慎み深くあるように教え、凶しきことや邪しきことをなさせてはならない。代々お前たちの祀りと位を返し、長く百蛮の長とさせよう。咎があり善からぬ者は、その禄を失い、その功を失うことになる。励まずにいられようか。烏桓の単于は部の衆を都護し、左右の単于はその節度を受け、その他は旧例のとおりとする。」

7太祖が柳城で蹋頓を斬る

後樓班大,峭王率其部衆奉樓班爲單于,蹋頓爲王。然蹋頓多畫計策。廣陽閻柔,少沒烏丸、鮮卑中,爲其種所歸信。柔乃因鮮卑衆,殺烏丸校尉邢舉代之,紹因寵慰以安北邊。後袁尚敗奔蹋頓,憑其勢,復圖冀州。會太祖平河北,柔帥鮮卑、烏丸歸附,遂因以柔爲校尉,猶持漢使節,治廣甯如舊。建安十一年,太祖自征蹋頓於柳城,潛軍詭道,未至百餘里,虜乃覺。尚與蹋頓將衆逆戰於凡城,兵馬甚盛。太祖登高望虜陳,(柳)軍未進,觀其小動,乃擊破其衆,臨陳斬蹋頓首,死者被野。速附丸、樓班、烏延等走遼東,遼東悉斬,傳送其首。其餘遺迸皆降。及幽州、并州柔所統烏丸萬餘落,悉徙其族居中國,帥從其侯王大人種衆與征伐。由是三郡烏丸爲天下名騎。

のちに樓班が成長すると、峭王はその部の衆を率いて樓班を奉じて単于とし、蹋頓は王となった。しかし策を立てることは蹋頓の方が多かった。

広陽の人である閻柔は、幼いころ烏丸や鮮卑の中に落ちていたので、その族から信を寄せられていた。閻柔はそこで鮮卑の衆の力を借りて烏丸校尉の邢舉を殺してその地位に代わり、袁紹はそれによって彼を厚く遇し慰めて北の辺境を安らかにした。

のちに袁尚が敗れて蹋頓のもとへ逃げ、その勢いに頼って再び冀州を狙った。ちょうど太祖が河北を平定したので、閻柔は鮮卑と烏丸を率いて帰り附き、そのまま閻柔を校尉として、なお漢の使節を持たせ、以前のとおり広寧で治めさせた。

建安十一年、太祖は自ら柳城に蹋頓を討った。軍を潜め道を偽って、百余里に迫ってようやく虜は気づいた。袁尚と蹋頓は衆を率いて凡城で迎え戦い、兵も馬もはなはだ盛んであった。太祖は高い所に登って虜の陣を望み、軍を進めずにその小さな動きをうかがってから、その衆を討ち破り、陣の前で蹋頓の首を斬ったので、死者が野を覆った。

速附丸・樓班・烏延らは遼東へ逃げたが、遼東ですべて斬られ、その首が送られてきた。残って散った者は皆降った。幽州と并州で閻柔が率いていた烏丸の万余落については、その族をすべて移して中国に住ませ、その侯や王や大人と族の衆を率いて征伐に従わせた。これによって三郡の烏丸は天下に名高い騎兵となった。

8景初元年に降ってきた烏丸

《魏略》曰:景初元年秋,遣幽州刺史毌丘儉率衆軍討遼東。右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留葉,昔隨袁尚奔遼西,聞儉軍至,率衆五千餘人降。寇婁敦遣弟(阿羅獎)阿羅槃等詣闕朝貢,封其渠帥三十餘爲王,賜輿馬繒采各有差。

『魏略』にいう。景初元年の秋、幽州刺史の毌丘倹を遣わし、諸軍を率いて遼東を討たせた。右北平の烏丸単于である寇婁敦と、遼西の烏丸都督率衆王である護留葉は、かつて袁尚に従って遼西へ逃げた者たちであったが、毌丘倹の軍が至ったと聞いて、衆五千余人を率いて降った。寇婁敦は弟の阿羅槃らを遣わして朝廷に参内し朝貢させたので、その渠帥三十余人を王に封じ、車や馬や絹を差をつけて賜った。