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濊

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 三國志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳 · 陳寿、注釈 裴松之 · 3世紀末(注は429年) · 段落 3 · 漢字 477字 · 朗読 1.9分

三国志 東夷伝(三国志に記された東夷の記録) 東夷 中国の人が周りの国を記した最も古い記録。夫余・高句麗・沃沮・邑婁・濊・三韓・倭人がここに初めて現れる。同じ筆が北の烏丸・鮮卑と西の大秦(ローマ)までを一巻に記しており、当時の中国が他者をどのような尺度で分けて見ていたかも併せて明らかになる。

1濊 — 同じ姓どうしでは婚姻しない

濊南與辰韓,北與高句麗、沃沮接,東窮大海,今朝鮮之東皆其地也。戶二萬。昔箕子既適朝鮮,作八條之教以教之,無門戶之閉而民不爲盜。其後四十餘世,朝鮮侯(淮)僭號稱王。陳勝等起,天下叛秦,燕、齊、趙民避地朝鮮數萬口。燕人衛滿,魋結夷服,復來王之。漢武帝伐滅朝鮮,分其地爲四郡。自是之後,胡、漢稍別。無大君長,自漢已來,其官有侯邑君、三老,統主下戶。其耆老舊自謂與句麗同種。其人性願愨,少嗜欲,有廉恥,不請(句麗)匄。言語法俗大抵與句麗同,衣服有異。男女衣皆著曲領,男子擊銀花廣數寸以爲飾。自單單大山領以西屬樂浪,自領以東七縣,都尉主之,皆以濊爲民。後省都尉,封其渠帥爲侯,今不耐濊皆其種也。漢末更屬句麗。其俗重山川,山川各有部分,不得妄相涉入。同姓不婚。多忌諱,疾病死亡輒損棄舊宅,更作新居。有麻布,蠶桑作綿。曉候星宿,豫知年歲豐約。

濊は南は辰韓、北は高句麗・沃沮と境を接し、東は大海で尽きる。いまの朝鮮の東はすべてその地である。戸は二万である。

昔、箕子が朝鮮へ行って八条の教えを作って教えたので、門を閉ざさなくとも民は盗みをしなかった。その後四十余代して、朝鮮侯が身分を越えて王と称した。

陳勝らが起こって天下が秦に背いたとき、燕・齊・趙の民で朝鮮へ身を避けた者が数万人であった。燕の人の衛満が髷を結い夷の服を着て、改めて来てここで王となった。漢の武帝が朝鮮を討って滅ぼし、その地を分けて四つの郡とした。この後、胡と漢が次第に分かれた。

大きな君長はなく、漢の時から後、その官に侯・邑君・三老があって、下戸を率い司る。その老人たちは古くから自ら高句麗と同じ族だという。

その人々は性が慎み深く真面目で、欲しがるものが少なく、恥を知っていて、人に物乞いをしない。言葉も法も風俗もおおむね高句麗と同じで、衣服には異なるところがある。男女の衣はどれも曲領をつけ、男子は幅数寸の銀の花をつけて飾りとする。

單單大山領から西は楽浪に属し、その領から東の七県は都尉が司ったが、どれも濊を民とした。のちに都尉を廃してその渠帥を侯に封じたので、いまの不耐濊は皆その族である。漢末には改めて高句麗に属した。

その風俗は山川を重んじ、山川ごとにそれぞれ分かれた持ち分があって、みだりに互いに踏み入ることはできない。同じ姓どうしでは婚姻しない。忌むことが多く、病んで死ぬと、そのたびに古い家を壊して捨て、新しい住まいを建て直す。麻布があり、蚕を飼って絹を作る。星の宿りを見分けることができ、その年が豊作か不作かを前もって知る。

2舞天と責禍

不以誅玉爲寶。常用十月節祭天,晝夜飲酒歌舞,名之爲舞天,又祭虎以爲神。其邑落相侵犯,輒相罰責生口牛馬,名之爲責禍。殺人者償死。少寇盜。作矛長三丈,或數人共持之,能步戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮,土地饒文豹,又出果下馬,漢桓時獻之。

珠や玉を宝とはしない。つねに十月の節で天を祭り、昼も夜も酒を飲み歌い舞うので、これを舞天という。また虎を祭って神とする。

その邑落が互いに侵し犯せば、そのたびに互いに罰して人や牛や馬を償わせるので、これを責禍という。人を殺した者は死で償う。盗みは少ない。

矛を作るが長さが三丈あるので、数人で共に持つこともあり、歩いて戦うことに巧みである。楽浪檀弓はその地から出る。その海からは班魚の皮が出、土地には斑のある豹が多く、また果下馬が出るが、漢の桓帝の時にこれを献じた。

夾注 1

臣松之按:果下馬高三尺,乘之可於果樹下行,故謂之果下。見《博物志》、《魏都賦》。

臣の松之が考えるに、果下馬は高さが三尺で、乗ったまま果樹の下を通ることができるので、果下という。『博物志』と『魏都賦』に見える。

3不耐濊王

正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。

正始六年、楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵は、領東の濊が高句麗に属したとして軍を起こして討ったので、不耐侯らは邑ごと挙げて降った。その八年、朝廷に参内して朝貢したので、詔によって改めて不耐濊王とした。

住む所は民のあいだに入り混じっており、四季ごとに郡へ出て参謁した。二つの郡に軍を出すことや賦を取り立てることがあれば、それを供え、使役を受けたので、扱いは民と同じであった。