いにしえの文 › 大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) › 第2巻

健馱邏国健馱邏國

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 大唐西域記 · 玄奘 著 · 辯機 編 · 646年(唐・貞観20年) · 段落 28 · 漢字 3,950字 · 朗読 15.8分

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 第2巻 玄奘が十七年のあいだ西域とインドの百三十八か国を踏んで帰り、唐の太宗に奉った記録。西遊記のもとになった書だが、ここにあるのは妖怪ではなく、国ごとの広さと気候と言葉と信仰である。法顕より二百年後、慧超より八十年前の道である。

健馱邏國東西千餘里,南北八百餘里,東臨信度河。國大都城號布路沙布邏,周四十餘里。王族絕嗣,役屬迦畢試國。邑里空荒,居人稀少,宮城一隅有千餘戶。穀稼殷盛,花果繁茂,多甘蔗,出石蜜。氣序溫暑,略無霜雪。人性恇怯,好習典藝,多敬異道,少信正法。自古已來,印度之境作論諸師,則有那羅延天、無著菩薩、世親菩薩、法救、如意、脅尊者等本生處也。僧伽藍十餘所,摧殘荒廢,蕪漫蕭條,諸窣堵波頗多頹圮。天祠百數,異道雜居。

健馱邏国は東西千余里、南北八百余里である。東は信度河に臨む。国の大都城は布路沙布邏と呼ばれ、周囲は四十余里である。王族の血筋が絶えて、迦畢試国に属して使役される。邑や里は空しく荒れ、住む人はまれで、宮城の一隅に千余戸がある。穀物の作りは豊かに盛んで、花や果実が盛んに茂る。甘蔗が多く、石蜜を産する。気候は温かく蒸し暑く、霜や雪はほとんどない。人の性質は臆病で、古い書と技芸を修めることを好む。異なる道を敬うことが多く、正しい法を信じることは少ない。古くからインドの境で論を作ったもろもろの師、すなわち那羅延天・無著菩薩・世親菩薩・法救・如意・脅尊者などの生まれた所である。僧伽藍は十余か所あるが、挫け崩れて荒れ廃れ、寂しく荒涼としており、もろもろの窣堵波もかなり多く崩れ落ちている。天祠は百を数え、外道が入りまじって住む。

2仏の鉢を安置した所

王城內東北有一故基,昔佛缽之寶臺也。如來涅槃之後,缽流此國,經數百年,式遵供養,流轉諸國,在波剌斯。

王城の内の東北に一つの古い土台がある。昔、仏の鉢を安置した宝の台である。如来が涅槃に入られたのち、鉢はこの国に流れて来て、数百年のあいだ法式のとおりに供養を受けたが、もろもろの国を移り転じて、いまは波剌斯にある。

3四仏が坐された卑鉢羅の樹

城外東南八九里有卑缽羅樹,高百餘尺,枝葉扶疏,蔭影蒙密。過去四佛已坐其下,今猶現有四佛坐像。賢劫之中,九百九十六佛皆當坐焉。冥祇警衛,靈鑒潛被。釋迦如來於此樹下南面而坐,告阿難曰:「我去世後,當四百年,有王命世,號迦膩色迦,此南不遠起窣堵波,吾身所有骨肉舍利,多集此中。」

城の外の東南八、九里に卑鉢羅の樹があり、高さは百余尺である。枝と葉が生い茂り、蔭は濃く密である。過去の四仏がすでにその下に坐され、いまも四仏の坐像がある。賢劫のうち、九百九十六の仏がみなここに坐されるであろう。幽かな神が守り衛り、霊しい鑑がひそかに及んでいる。釈迦如来はこの樹の下で南を向いて坐り、阿難に告げられた。「私が世を去ったのち、四百年になると、その世に名高い王があって、迦膩色迦と号するであろう。この南の遠くない所に窣堵波を建てれば、私の身の骨と肉の舎利が、その中に多く集まるであろう。」

4迦膩色迦王の大塔

卑缽羅樹南有窣堵波,迦膩色迦王之所建也。迦膩色迦王以如來涅槃之後第四百年,君臨膺運,統贍部洲,不信罪福,輕毀佛法。畋遊草澤,遇見白兔,王親奔逐,至此忽滅。見有牧牛小豎,於林樹間作小窣堵波,其高三尺。王曰:「汝何所為?」牧豎對曰:「昔釋迦佛聖智懸記:『當有國王於此勝地建窣堵波,吾身舍利多聚其內。』大王聖德宿殖,名符昔記,神功勝福,允屬斯辰,故我今者先相警發。」說此語已,忽然不現。王聞是說,喜慶增懷,自負其名大聖先記,因發正信,深敬佛法。周小窣堵波,更建石窣堵波,欲以功力彌覆其上。隨其數量,恒出三尺,若是增高,逾四百尺。基趾所峙,周一里半,層基五級,高一百五十尺,方乃得覆小窣堵波。王因喜慶,復於其上更起二十五層金銅相輪,即以如來舍利一斛而置其中,式修供養。營建才迄,見小窣堵波在大基東南隅下傍出其半。王心不平,便即擲棄,遂住窣堵波第二級下石基中半現,復於本處更出小窣堵波。王乃退而嘆曰:「嗟夫,人事易迷,神功難掩,靈聖所扶,憤怒何及!」慚懼既已,謝咎而歸。其二窣堵波今猶現在,有嬰疾病欲祈康愈者,塗香散花,至誠歸命,多蒙瘳差。

卑鉢羅の樹の南に窣堵波があり、迦膩色迦王が建てたものである。迦膩色迦王は、如来が涅槃に入られて四百年のころ、君として臨み運を受けて贍部洲を統べたが、罪と福を信じず、仏法を軽んじ毀っていた。草深い沢で狩り遊んでいて白い兎に出会い、王はみずから追いかけたが、ここに至ってふいに消えた。見ると牛飼いの小童が林の木の間で小さな窣堵波を作っていて、その高さは三尺であった。王は言った。「お前は何をしているのか。」牛飼いの童は答えた。「昔、釈迦仏が聖なる智であらかじめ記されました。『まさに国王があってこの勝れた地に窣堵波を建てれば、私の身の舎利がその内に多く集まるであろう』と。大王は聖なる徳を前の世に植えられ、名は昔の記に符合し、神しい功と勝れた福はまことにこの時に属しますので、私がいま先にお知らせするのです。」この言葉を説き終えると、ふいに現れなくなった。王はこの言葉を聞いて喜びと慶びがいっそう増し、大聖があらかじめ記された名がみずからのものだと信じて、そこで正しい信を発し、仏法を深く敬った。小さな窣堵波をめぐって、さらに石の窣堵波を建て、功力でその上を覆おうとしたが、その量に応じてつねに三尺ずつ出て来て、こうして高くなること四百尺を越えた。土台の立つところは周囲一里半、層を成す基は五段で、高さ百五十尺になって、ようやく小さな窣堵波を覆うことができた。王は喜び慶んで、さらにその上に二十五層の金銅の相輪を立て、如来の舎利一斛をその中に置いて、法式のとおりに供養を修めた。造営がようやく終わると、小さな窣堵波が大きな基の東南の隅の下から半ば出ているのが見えた。王は心穏やかでなく、ただちにそれを投げ捨てたが、ついに窣堵波の第二段の下の石の基の中に半ば現れてとどまり、またもとの所にも小さな窣堵波が出て来た。王はそこで退いて嘆いた。「ああ、人の事は迷いやすく、神しい功は掩いがたい。霊しい聖者が扶けているのだから、憤り怒っても何になろう。」恥じ恐れたのち、咎を謝して帰った。その二つの窣堵波はいまもなお残っており、病を得て癒えることを祈りたい者が、香を塗り花を散らし、至誠をもって命を帰すれば、癒える者が多い。

5金色の蟻が刻んだ二つの像

大窣堵波東面石陛南鏤作二小窣堵波,一高三尺,一高五尺,規摹形狀如大窣堵波。又作兩軀佛像,一高四尺,一高六尺,擬菩提樹下加趺坐像,日光照燭,金色晃曜,陰影漸移,石文青紺。聞諸耆舊曰:數百年前,石基之隙有金色蟻,大者如指,小者如麥,同類相從,嚙其石壁,文若雕鏤,廁以金沙,作為此像,今猶現在。

大きな窣堵波の東面の石の階の南に、二つの小さな窣堵波を彫り出してあり、一つは高さ三尺、一つは高さ五尺で、模様や形は大きな窣堵波と同じである。また二躯の仏像を作っており、一つは高さ四尺、一つは高さ六尺で、菩提樹の下で結跏趺坐された像をかたどっている。日の光が照らすと金色が輝き、蔭が次第に移ると石の文は青黒くなる。老いた人たちに聞いたところではこうである。数百年前、石の基の隙間に金色の蟻がいて、大きなものは指ほど、小さなものは麦ほどであった。同じ類が従い合ってその石の壁を噛み、文は彫り刻んだようになり、金の砂を交えてこの像を作ったという。いまもなお残っている。

6身が二つに分かれた画の仏

大窣堵波石陛南面有畫佛像,高一丈六尺,自胸已上,分現兩身,從胸已下,合為一體。聞諸先志曰:初,有貧士傭力自濟,得一金錢,願造佛像。至窣堵波所,謂畫工曰:「我今欲圖如來妙相,有一金錢,酬工尚少,宿心憂負,迫於貧乏。」時彼畫工鑒其至誠,無云價直,許為成功。復有一人,事同前跡,持一金錢,求畫佛像。畫工是時受二人錢,求妙丹青,共畫一像。二人同日俱來禮敬,畫工乃同指一像,示彼二人,而謂之曰:「此是汝所作之佛像也。」二人相視,若有所懷。畫工心知其疑也,謂二人曰:「何思慮之久乎?凡所受物,毫厘不虧。斯言不謬,像必神變。」言聲未靜,像現靈異,分身交影,光相昭著。二人悅服,心信歡喜。

大きな窣堵波の石の階の南の面に描かれた仏像があり、高さは一丈六尺である。胸より上は二つの身に分かれて現れ、胸より下は合して一つの体となっている。古い記録に聞くところではこうである。初め、貧しい者が力仕事で身を養っていて、金銭一つを得たので仏像を造りたいと願った。窣堵波のある所に至って絵師に言った。「私はいま如来の妙なる相を描きたいが、金銭が一つしかなく、工の代としてはまだ少ない。久しい思いが心の負い目となっているが、貧しさに迫られてこうなのだ。」そのときその絵師はその至誠を見て、代のことは言わず、成し遂げてやろうと許した。また一人、前と同じ事情の者があり、金銭一つを持って仏像を描いてほしいと求めた。絵師はこのとき二人の銭を受け取り、妙なる絵の具を求めて、二人のために一つの像を描いた。二人は同じ日にともに来て礼をしたが、絵師は一つの像を一緒に指して二人に示し、こう言った。「これがあなたがたの作った仏像です。」二人は見合って、心に思うところがあるようであった。絵師はその疑いを心で知って、二人に言った。「どうしてそんなに長く思い悩むのか。およそ受け取ったものは、毛筋ほども欠かしていない。この言葉が偽りでなければ、像は必ず神しく変じるであろう。」言葉の声がまだ静まらぬうちに、像は霊しい異を現し、身を分けて影を交え、光と相がはっきりと現れた。二人は喜んで服し、心に信じて歓び喜んだ。

7夜に歩き出た白石の仏

大窣堵波西南百餘步,有白石佛像,高一丈八尺,北面而立,多有靈相,數放光明。時有人見像出夜行,旋繞大窣堵波。近有群賊欲入行盜,像出迎賊,賊黨怖退,像歸本處,住立如故。群盜因此改過自新,遊行邑裏,具告遠近。

大きな窣堵波の西南百余歩に白い石の仏像があり、高さは一丈八尺、北を向いて立っている。霊しい相が多く、しばしば明るい光を放つ。あるとき、像が出て夜に歩き、大きな窣堵波をめぐるのを見た人がいた。近ごろ盗賊の群れが入って盗もうとしたところ、像が出て賊を迎えたので、賊の仲間は怖れて退き、像はもとの所に帰ってもとのように立っていた。盗賊の群れはこれによって過ちを改めてみずから新たになり、邑や里を歩きまわって、遠近にくわしく告げた。

8七たび焼け七たび立った塔

大窣堵波左右,小窣堵波魚鱗百數。佛像莊嚴,務窮工思,殊香異音,時有聞聽,靈仙聖賢,或見旋繞。此窣堵波者,如來懸記,七燒七立,佛法方盡。先賢記曰:成壞已三。初至此國,適遭火災,當見營構,尚未成功。

大きな窣堵波の左右には、小さな窣堵波が魚の鱗のように百を数える。仏像の荘厳は工と思いをきわめ、珍しい香と異しい音がときおり聞かれ、霊しい仙や聖賢がめぐるのを見ることもある。この窣堵波については、如来があらかじめ記されて、「七たび焼け七たび立ってこそ、仏法は初めて尽きるであろう」と言われた。先の賢者の記には「成り壊れることが、すでに三たびである」とある。この国に初めて至ったとき、ちょうど火の災いに遭って、いま造営しているところを見たが、まだ成し終えてはいなかった。

9迦膩色迦王の伽藍

大窣堵波西有故伽藍,迦膩色迦王之所基也。重閣累榭,層臺洞戶,旌召高僧,式昭景福。雖則圮毀,尚曰奇工。僧徒減少,並學小乘。自建伽藍,異人間出,諸作論師及證聖果,清風尚扇,至德無泯。

大きな窣堵波の西に古い伽藍があり、迦膩色迦王が土台を築いたものである。重なる楼閣と層を成す榭、層を成す台と通じ合う戸は、高い僧を招き表して、大きな福を明らかにしようとしたものである。崩れ毀れてはいるが、なお奇しい工と言ってよい。僧は減って少なく、みな小乗を学んでいる。伽藍が建てられてから、並でない人が次々と出て、もろもろの論を作った師や聖なる果を証した者があり、清い風がなお扇がれ、至極の徳は消えていない。

10脅尊者の室

第三重閣有波栗濕縛尊者室,久已傾頓,尚立旌表。初,尊者之為梵志師也,年垂八十,舍家染衣。城中少年便誚之曰:「愚夫朽老,一何淺智!夫出家者,有二業焉,一則習定,二乃誦經。而今衰耄,無所進取,濫跡清流,徒知飽食。」時脅尊者聞諸譏議,因謝時人而自誓曰:「我若不通三藏理,不斷三界欲,得六神通,具八解脫,終不以脅而至於席!」自爾之後,唯日不足,經行宴坐,住立思惟,晝則研習理教,夜乃靜慮凝神,綿歷三歲,學通三藏,斷三界欲,得三明智,時人敬仰,因號脅尊者焉。

第三の重ねの閣に波栗濕縛尊者の室がある。倒れ崩れてから久しいが、なお表が立てられている。初め、尊者が梵志たちの師であったとき、年は八十に近かったが、家を捨てて染めた衣を着た。城の中の若者たちはすぐに譏って言った。「愚かな老い朽ちた者が、何と浅い智か。そもそも家を出た者には二つの業がある。一つは定を修めること、二つは経を誦むことだ。それなのに今は老い衰えて進み取るところもないのに、みだりに清い流れに跡を置いて、ただ腹いっぱい食うことだけを知っている。」そのとき脅尊者はこの譏る言葉を聞いて、世の人に謝してみずから誓った。「私がもし三蔵の理に通じず、三界の欲を断たず、六つの神通を得て八つの解脱を具えないなら、ついに脅を席につけはしない。」それからのちは、日が足らぬばかりに、歩みめぐり静かに坐し、立ちどまって思いをめぐらし、昼は理と教えを研め習い、夜は静かに慮って神を凝らした。三年を続けて、学は三蔵に通じ、三界の欲を断ち、三つの明らかな智を得た。そのときの人は敬い仰ぎ、これによって脅尊者と号したのである。

夾注 1

唐言脅。

唐の言葉で脅という。

11世親の室

脅尊者室東有故房,世親菩薩於此制《阿毗達磨俱舍論》,人而敬之,封以記焉。

脅尊者の室の東に古い房があり、世親菩薩がここで『阿毗達磨俱舎論』を作った。人々はこれを敬って、封じて記しを立ててある。

12如意論師と超日王

世親室南五十餘步,第二重閣,末笯曷剌他論師於此制《毗婆沙論》。論師以佛涅槃之後一千年中利見也。少好學,有才辯,聲問遐被,法俗歸心。時室羅伐悉底國毗訖羅摩阿叠多王威風遠洽,臣諸印度,日以五億金錢周給貧窶孤獨。主藏臣懼國用乏匱也,乃諷諫曰:「大王威被殊俗,澤及昆蟲,請增五億金錢,以賑四方匱乏。府庫既空,更稅有土,重斂不已,怨聲載揚,則君上有周給之恩,臣下被不恭之責。」王曰:「聚有餘,給不足,非茍為身侈靡國用。」遂加五億,惠諸貧乏。其後畋遊,逐豕失蹤,有尋知跡者,賞一億金錢,如意論師一使人剃髮,輒賜一億金錢,其國史臣依即書記。王恥見高,心常怏怏,欲眾辱如意論師。乃招集異學德業高深者百人,而下令曰:「欲收視聽,遊諸真境,異道紛雜,歸心靡措,今考優劣,專精遵奉。」洎乎集論,重下令曰:「外道論師並英俊也,沙門法眾宜善宗義,勝則崇敬佛法,負則誅戮僧徒。」於是如意詰諸外道,九十九人已退飛矣。下席一人,視之蔑如也,因而劇談,論及火煙。王與外道咸喧言曰:「如意論師辭義有失!夫先煙而後及火,此事理之常也。」如意雖欲釋難,無聽覽者。恥見眾辱,齰斷其舌,乃書誡門人世親曰:「黨援之眾,無競大義;群迷之中,無辯正論。」言畢而死。居未久,超日王失國,興王膺運,表式英賢。世親菩薩欲雪前恥,來白王曰:「大王以聖德君臨,為含識主命。先師如意學窮玄奧,前王宿撼,眾挫高名,我承導誘,欲復前怨。」其王知如意哲人也,美世親雅操焉,乃召諸外道與如意論者。世親重述先旨,外道謝屈而退。

世親の室の南五十余歩、第二の重ねの閣で、末笯曷剌他論師が『毗婆沙論』を作った。論師は仏が涅槃に入られて千年のうちに現れた人である。幼くして学を好み、才と弁舌があって、名声が遠くまで及び、僧も俗も心を帰した。そのとき室羅伐悉底国の毗訖羅摩阿迭多王は威と風が遠くまで行きわたってもろもろのインドを臣とし、日ごとに五億の金銭で貧しく孤り身の者をあまねく助けていた。蔵を主る臣は国の財用が乏しくなるのを恐れて、ほのめかして諫めた。「大王の威は異なる風俗にまで被り、恵みは虫にまで及んでおります。願わくは五億の金銭を増して、四方の乏しい者を賑わせてください。ただ府の蔵が空になれば、あらためて土地ある者に税をかけ、重く取り立てて止まなければ、怨む声が挙がりましょう。そうなれば君上にはあまねく施された恩がありながら、臣下は恭しくないという責めを受けます。」王は言った。「余りあるものを集めて足らぬ所に与えるのであって、かりそめにも我が身のために国の財用を奢り費やすのではない。」そしてついに五億を加えて、もろもろの乏しい者に恵み施した。その後、狩り遊んで猪を追い、跡を失ったので、その跡を尋ね知った者に金銭一億を賞として与え、如意論師の使いの者が一人、髪を剃ってやると、ただちに金銭一億を賜ったので、その国の史の臣はそのまま書き記した。王は人が高く見えるのを恥じて、心がつねに快くなかったので、人々の前で如意論師を辱めようとした。そこで異なる学の者で徳と業の高く深い者百人を招き集め、令を下した。「見るものも聞くものも収めて、まことの境に遊びたいと思うが、異なる道が入り乱れて、心を置くところがない。いま優劣を考えて、もっぱら精しいものを遵い奉じよう。」論に集まるに至って、重ねて令を下した。「外道の論師はいずれも英れた俊才である。沙門の法の衆は、よく宗の義を立てよ。勝てば仏法を崇め敬い、負ければ僧たちを誅殺する。」そこで如意がもろもろの外道を問い詰めると、九十九人はすでに退いて逃げ去った。席の下の一人は、見たところ取るに足らぬ者だったので、思うままに談じて、論が火と煙に及んだ。王と外道はみな騒ぎ立てて言った。「如意論師の辞と義に誤りがある。そもそも煙が先で火が後であるのは、事の理として当たり前のことだ。」如意はその難を解こうとしたが、聞き取る者がなかった。人々の前で辱められたのを恥じ、みずからの舌を噛み切って、弟子の世親に書を残して戒めた。「党し加担する者の多いところでは、大義を競うことはできない。迷った群れの中では、正しい論を弁ずることはできない。」言い終わって死んだ。久しからずして超日王は国を失い、新しい王が運を受けて、英れた賢者を表して則とした。世親菩薩は先の恥を雪ごうとして、王に申し上げた。「大王は聖なる徳で君として臨み、識あるものの命の主となられました。先の師、如意は学が玄く奥なるところをきわめましたが、前の王が久しく恨みを抱き、人々の前でその高い名を挫きました。私はその導きを承けましたので、先の怨みを復したいと思います。」その王は如意が哲しい人であったことを知っており、世親の雅な操を美しいと思ったので、そこでもろもろの外道のうち如意と論じた者たちを召した。世親は先の旨を重ねて述べ、外道は屈したことを謝して退いた。

夾注 2

唐言如意。

唐の言葉で如意という。

唐言超日。

唐の言葉で超日という。

13布色羯邏伐底城

迦膩色迦王伽藍東北行五十餘里,渡大河,至布色羯邏伐底城,周十四五里。居人殷盛,閭閻洞連。城西門外有一天祠,天像威嚴,靈異相繼。

迦膩色迦王の伽藍から東北へ五十余里行き、大きな川を渡ると、布色羯邏伐底城に至る。周囲は十四、五里である。住む人は多く盛んで、家々の門が通じ連なっている。城の西門の外に一つの天祠があり、天の像は威厳があって、霊しい異があいついで現れる。

14世友論師が論を作った所

城東有窣堵波,無憂王之所建也,即過去四佛說法之處。古先聖賢自中印度降神導物,斯地寔多,即伐蘇蜜呾羅論師於此制《眾事分阿毗達磨論》。

城の東に窣堵波があり、無憂王が建てたものである。すなわち過去の四仏が法を説かれた所である。古い聖賢が中インドから神を降して物を導いた跡は、この地にまことに多い。すなわち伐蘇蜜呾羅論師がここで『衆事分阿毗達磨論』を作った。

夾注 1

唐言世友。舊曰和須蜜多,訛也。

唐の言葉で世友という。昔は和須蜜多といったが、誤りである。

15法救論師が論を作った所

城北四五里有故伽藍,庭宇荒涼,僧徒寡少,然皆遵習小乘法教。即達磨呾邏多論師於此制《雜阿毗達磨論》。

城の北四、五里に古い伽藍があり、庭や建物は荒れ果て、僧は少ないが、みな小乗の法と教えを遵い修めている。すなわち達磨呾邏多論師がここで『雑阿毗達磨論』を作った。

夾注 1

唐言法救。舊曰達摩多羅,訛也。

唐の言葉で法救という。昔は達摩多羅といったが、誤りである。

16千の生のあいだ眼を施した所

伽藍側有窣堵波,高數百尺,無憂王之所建也,雕木文石,頗異人工。是釋迦佛昔為國王,修菩薩行,從眾生欲,惠施不倦,喪身若遺,於此國土千生為王,即斯勝地千生舍眼。

伽藍のかたわらに窣堵波があり、高さは数百尺、無憂王が建てたものである。木を彫り石に文を置いたさまは、かなり人の手わざとは違っている。これは釈迦仏が昔、国王となって菩薩の行を修め、衆生の望みに従って恵み施すことを倦まず、身を捨てることを古びたものを捨てるようにされ、この国土で千の生を王となり、すなわちこの勝れた地で千の生を眼を施された所である。

17梵王と帝釈が建てた二つの塔

舍眼東不遠有二石窣堵波,各高百餘尺。右則梵王所立,左乃天帝所建,以妙珍寶而瑩飾之。如來寂滅,寶變為石。基雖傾陷,尚曰崇高。

眼を施された所の東、遠くない所に二つの石の窣堵波があり、それぞれ高さは百余尺である。右のものは梵王が立て、左のものは天帝が建てたもので、妙なる珍しい宝で輝かしく飾られていた。如来が寂滅に入られると、宝は石に変わった。基は傾き陥っているが、なお高いと言ってよい。

18鬼子母を教化した所

梵、釋窣堵波西北行五十餘里,有窣堵波,是釋迦如來於此化鬼子母,令不害人,故此國俗祭以求嗣。

梵王と帝釈の窣堵波から西北へ五十余里行くと窣堵波がある。これは釈迦如来がここで鬼子母を教化し、人を害さないようにさせた所である。それゆえこの国の風俗では、ここに祭って子を授かることを求める。

19商莫迦菩薩

化鬼子母北行五十餘里,有窣堵波。是商莫迦菩薩恭行鞠養,侍盲父母,於此采果,遇王遊獵,毒矢誤中,至誠感靈,天帝傅藥,德動明聖,尋即復蘇。

鬼子母を教化された所から北へ五十余里行くと窣堵波がある。これは商莫迦菩薩が恭しく養いを行い、目の見えない父母に侍って、ここで果実を採っていたとき、王が狩りに出たのに出会って毒の矢に誤って中てられたが、至誠が霊を感じさせ、天帝が薬を塗ってくれたので、徳が明らかな聖者を動かして、ほどなく生き返った所である。

夾注 1

舊曰睒摩菩薩,訛也。

昔は睒摩菩薩といったが、誤りである。

20跋虜沙城 — 蘇達拿太子

商莫迦菩薩被害東南行二百餘里,至跋虜沙城。城北有窣堵波,是蘇達拿太子以父王大象施婆羅門,蒙譴被擯,顧謝國人,既出郭門,於此告別。其側伽藍,五十餘僧,並小乘學也。昔伊濕伐邏論師於此制《阿毗達磨明燈論》。

商莫迦菩薩が害を受けた所から東南へ二百余里行くと、跋虜沙城に至る。城の北に窣堵波があり、これは蘇達拿太子が父王の大きな象を婆羅門に施して、責めを受けて追われ、国の人に別れを告げ、城門を出てここで別れた所である。そのかたわらの伽藍には僧が五十余人おり、みな小乗の学である。昔、伊濕伐邏論師がここで『阿毗達磨明灯論』を作った。

夾注 2

唐言善牙。

唐の言葉で善牙という。

唐言自在。

唐の言葉で自在という。

21子らを売った所

跋虜沙城東門外有一伽藍,僧徒五十餘人,並大乘學也。有窣堵波,無憂王之所建立。昔蘇達拿太子擯在彈多落迦山,婆羅門乞其男女,於此鬻賣。

跋虜沙城の東門の外に一つの伽藍があり、僧は五十余人で、みな大乗の学である。窣堵波があり、無憂王が建立したものである。昔、蘇達拿太子が弾多落迦山に追われていたとき、婆羅門がその男の子と女の子を乞うたので、ここで売り渡した所である。

夾注 1

舊曰檀特山,訛也。

昔は檀特山といったが、誤りである。

22弾多落迦山

跋虜沙城東北二十餘里,至彈多落迦山。嶺上有窣堵波,無憂王所建。蘇達拿太子於此棲隱。其側不遠有窣堵波,太子於此以男女施婆羅門,婆羅門捶其男女,流血染地,今諸草木猶帶絳色。巖間石室,太子及妃習定之處。谷中林樹垂條若帷,並是太子昔所遊止。其側不遠有一石廬,即古仙人之所居也。

跋虜沙城の東北二十余里行くと、弾多落迦山に至る。峰の上に窣堵波があり、無憂王が建てたものである。蘇達拿太子はここに棲み隠れた。そのかたわら、遠くない所に窣堵波があり、太子がここで男の子と女の子を婆羅門に施したとき、婆羅門がその子らを打ち、流れた血が地を染めたので、いまもろもろの草や木がなお赤い色を帯びている。岩の間の石室は、太子とその妃が定を修めた所である。谷の中の林の木は、垂れた枝が帷のようで、いずれも太子が昔遊びとどまった所である。そのかたわら、遠くない所に一つの石の廬があり、すなわち古い仙人が住んだ所である。

23独角の仙人の跡

仙廬西北行百餘里,越一小山,至大山。山南有伽藍,僧徒鮮少,並學大乘。其側窣堵波,無憂王之所建也,昔獨角仙人所居之處。仙人為淫女誘亂,退失神通,淫女乃駕其肩而還城邑。

仙人の廬から西北へ百余里行き、小さな山を一つ越えると大きな山に至る。山の南に伽藍があり、僧はきわめて少なく、みな大乗を学んでいる。そのかたわらの窣堵波は、無憂王が建てたものである。昔、独角の仙人が住んだ所である。仙人は淫らな女に誘い乱されて神通を退き失い、淫らな女はそこでその肩に乗って城邑に還った。

24毗摩天女の像

跋虜沙城東北五十餘里,至崇山。山有青石大自在天婦像,毗摩天女也。聞諸土俗曰:此天像者,自然有也。靈異既多,祈禱亦眾。印度諸國求福請願,貴賤畢萃,遠近咸會。其有願見天神形者,至誠無貳,絕食七日,或有得見,求願多遂。山下有大自在天祠,塗灰外道式修祠祀。

跋虜沙城の東北五十余里行くと、高い山に至る。山には青い石で作った大自在天の妻の像があり、毗摩天女である。その地の人に聞いたところでは、この天の像はおのずとできたものだという。霊しい異が多いので、祈り祷る者も多い。インドのもろもろの国から福を求め願を請う者が、貴賤を問わずことごとく集まり、遠近からみな会する。天神の形を見たいと願う者が、至誠にして二心なく、七日食を断つと、見ることのできる者もあり、求める願もおおむね遂げられる。山の下に大自在天の祠があり、灰を身に塗る外道が法式のとおりに祠り祀っている。

25烏鐸迦漢荼城

毗摩天祠東南行百五十里,至烏鐸迦漢荼城。周二十餘里,南臨信度河。居人富樂,寶貨盈積,諸方珍異,多集於此。

毗摩天の祠から東南へ百五十里行くと、烏鐸迦漢荼城に至る。周囲は二十余里で、南は信度河に臨む。住む人は富み楽しみ、宝と財貨が積もり満ちている。諸方の珍しく異しいものが、この地に多く集まる。

26波你尼仙が生まれた所

烏鐸迦漢荼城西北行二十餘里,至娑羅睹邏邑,是制《聲明論》波你尼仙本生處也。遂古之初,文字繁廣,時經劫壞,世界空虛,長壽諸天,降靈導俗,由是之故,文籍生焉。自時厥後,其源泛濫。梵王、天帝作則隨時,異道諸仙各制文字。人相祖述,競習所傳,學者虛功,難用詳究。人壽百歲之時,有波你尼仙,生知博物,湣時澆薄,欲削浮偽,刪定繁猥,遊方問道,遇自在天,遂申述作之志。自在天曰:「盛矣哉!吾當祐汝。」仙人受教而退,於是研精覃思,捃摭群言,作為字書,備有千頌,頌三十二言矣。究極今古,總括文言,封以進上。王甚珍異,下令國中,普使傳習,有誦通利,賞千斤錢。所以師資傳授,盛行當世。故此邑中諸婆羅門碩學高才,博物強識。

烏鐸迦漢荼城から西北へ二十余里行くと、娑羅睹邏の邑に至る。『声明論』を作った波你尼仙の生まれた所である。はるかな昔の初めには文字が繁く広かったが、劫が過ぎて壊れ、世界が空しくなったのち、長く生きるもろもろの天が霊を降して俗を導いたので、それによって文と書物が生じた。その後、その源は泛れあふれた。梵王と天帝が時に従って則を作り、異なる道のもろもろの仙がおのおの文字を作った。人々はたがいに受け継いで述べ、伝えられたものを競って修めたので、学ぶ者は功を虚しくし、詳らかに究めることが難しかった。人の寿命が百歳であった時に波你尼仙があり、生まれながらに物を博く知っていた。その世が薄く軽くなったのを哀れんで、浮いた偽りを削り、繁く雑なものを削り定めようとして、諸方を巡って道を問い、自在天に出会ったので、ついに作ろうとする志を申し述べた。自在天は言った。「盛んなことだ。私はお前を祐けよう。」仙人は教えを受けて退き、そこで精しく研め深く思い、もろもろの言葉を拾い集めて字書を作り、千の頌を具えて、一頌は三十二言であった。今と昔をきわめ尽くし、文と言をすべて括って、封じて進め上った。王はこれをはなはだ珍しく思い、国の中に令を下してあまねく伝え習わせ、誦んで通じた者には千斤の銭を賞として与えた。それゆえ師と弟子が伝え授け、その世に盛んに行われた。だからこの邑の中のもろもろの婆羅門は、学が大きく才が高く、物を博く知って記憶が強い。

27羅漢が波你尼の生まれ変わりを教化した所

娑羅睹邏邑中有窣堵波,羅漢化波你尼仙後進之處。如來去世,垂五百年,有大阿羅漢自迦濕彌羅國遊化至此,乃見梵志捶訓稚童。時阿羅漢謂梵志曰:「何苦此兒?」梵志曰:「令學《聲明論》,業不時進。」阿羅漢逌爾而笑,老梵者曰:「夫沙門者,慈悲為情,湣物傷類。仁今所笑,願聞其說。」阿羅漢曰:「談不容易,恐致深疑。汝頗嘗聞波你尼仙制《聲明論》,垂訓於世乎?」婆羅門曰:「此邑之子,後進仰德,像設猶存。」阿羅漢曰:「今汝此子,即是彼仙。猶以強識,玩習世典,唯談異論,不究真理,神智唐捐,流轉未息,尚乘餘善,為汝愛子。然則世典文辭,彼疲功績,豈若如來聖教,福智冥滋?曩者南海之濱有一枯樹,五百蝙蝠於中穴居。有諸商侶止此樹下,時屬風寒,人皆饑凍,聚積樵蘇,蘊火其下,煙焰漸熾,枯樹遂燃。時商侶中有一賈客,夜分已後,誦《阿毗達磨藏》。彼諸蝙蝠雖為火困,愛好法音,忍而不去,於此命終。隨業受生,俱得人身,舍家修學,乘聞法聲,聰明利智,並證聖果,為世福田。近迦膩色迦王與脅尊者招集五百賢聖,於迦濕彌羅國作《毗婆沙論》,斯並枯樹之中五百蝙蝠也。餘雖不肖,是其一數。斯則優劣良異,飛伏懸殊。仁今愛子,可許出家。出家功德,言不能述。」時阿羅漢說此語已,示神通事,因忽不現。婆羅門深生敬異,嘆善久之,具告鄰里,遂放其子出家修學。因即回信,崇重三寶,鄉人從化,於今彌篤。

娑羅睹邏の邑の中に窣堵波があり、羅漢が波你尼仙の生まれ変わった身を教化した所である。如来が世を去られて五百年ばかりのころ、大阿羅漢が迦湿弥羅国から巡り歩いて教化しながらここに至り、梵志が幼い童を打って教えているのを見た。そのとき阿羅漢は梵志に言った。「なぜこの子を苦しめるのか。」梵志は言った。「『声明論』を学ばせているのに、学業が時に適って進まないのだ。」阿羅漢はにっこりと笑ったので、老いた梵志は言った。「そもそも沙門とは、慈悲を心として、物を哀れみ同類を痛む者である。あなたがいま笑われたので、その理由を聞きたい。」阿羅漢は言った。「話すのは容易ではない。深い疑いを招くのを恐れる。あなたは、波你尼仙が『声明論』を作って世に教えを垂れたことを、かつて聞いたことがあるか。」婆羅門は言った。「この邑の子であって、後の者がその徳を仰ぎ、像までなお残っている。」阿羅漢は言った。「いまあなたのこの子が、すなわちその仙である。なお強い記憶によって世の典籍を修めることを楽しみ、ただ異なる論ばかりを談じて、まことの理を究めなかったので、神しい智をむだに捨てて、流れ転じることが止まなかった。それでも残った善に乗じて、あなたの愛しい子となったのだ。とすれば、世の典籍の文や辞は、その疲れた功績がむだになるのであって、どうして如来の聖なる教えが福と智をひそかに滋すのに及ぼうか。昔、南の海のほとりに一本の枯れた樹があり、五百の蝙蝠がその中の穴に住んでいた。もろもろの商人の連れがこの樹の下にとどまったが、ちょうど風が寒く、人はみな飢え凍えたので、薪や草を集めてその下に火を蘊めた。煙と焰が次第に熾んになって、枯れた樹はついに燃えた。そのとき商人の連れの中に一人の賈客があって、夜が更けてから『阿毗達磨蔵』を誦んだ。あのもろもろの蝙蝠は火に困りながらも、法の音を愛して好み、耐えて去らず、ここで命を終えた。業に従って生を受け、ともに人の身を得て、家を捨てて修め学び、法の声を聞いた力に乗じて、聡く明らかで利き智をもち、みな聖なる果を証して、世の福田となった。近ごろ迦膩色迦王が脅尊者とともに五百の賢聖を招き集め、迦湿弥羅国で『毗婆沙論』を作ったが、それはみな枯れた樹の中の五百の蝙蝠である。私も不肖ながら、その一人に数えられる。とすれば優劣はまことに異なり、飛ぶものと伏すものとは懸け離れている。あなたがいま愛しむ子は、家を出ることを許してやるのがよい。家を出る功徳は、言葉では述べ尽くせない。」そのとき阿羅漢はこの言葉を説き終えると、神通の事を示して、ふいに現れなくなった。婆羅門は深く敬い異しいと思い、長く善いことだと嘆じて、隣里にくわしく告げ、ついにその子を放って家を出て修め学ばせた。これによって信を転じて三宝を崇め重んじ、郷の人も従って教化され、今ではますます篤くなっている。

從烏鐸迦漢荼城北逾山涉川,行六百餘里,至烏仗那國。

烏鐸迦漢荼城から北へ山を越え川を渡って六百余里行くと、烏仗那国に至る。

夾注 1

唐言苑,昔輪王之苑囿也。舊曰烏場,或曰烏荼,皆訛。北印度境。

唐の言葉で苑であり、昔の輪王の苑であった。昔は烏場といい、あるいは烏荼といったが、いずれも誤りである。北インドの境である。