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劫比羅伐窣堵国劫比羅伐窣堵國

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 大唐西域記 · 玄奘 著 · 辯機 編 · 646年(唐・貞観20年) · 段落 17 · 漢字 2,326字 · 朗読 9.3分

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 第6巻 玄奘が十七年のあいだ西域とインドの百三十八か国を踏んで帰り、唐の太宗に奉った記録。西遊記のもとになった書だが、ここにあるのは妖怪ではなく、国ごとの広さと気候と言葉と信仰である。法顕より二百年後、慧超より八十年前の道である。

劫比羅伐窣堵國周四千餘里。空城十數,荒蕪已甚。王城頹圮,周量不詳。其內宮城周十四五里,壘磚而成,基址峻固。空荒久遠,人里稀曠,無大君長,城各立主。土地良沃,稼穡時播。氣序無愆,風俗和暢。伽藍故基千有餘所,而宮城之側有一伽藍,僧徒三十餘人,習學小乘正量部教。天祠兩所,異道雜居。

劫比羅伐窣堵国は周囲四千余里である。空になった城が十余りあって、荒れ果てることすでに甚だしい。王城は崩れ壊れ、周囲の広さも詳らかでない。その内の宮城は周囲十四、五里で、煉瓦を積んで築かれ、基址は高く堅い。空しく荒れてから久しく遠く、人の住む里はまれで疎らであり、大きな君主がなく、城ごとにそれぞれ主を立てている。土地は良く肥えて、種え収めることを時にかなって行う。気候に狂いがなく、風俗は和やかにのびやかである。寺の古い基址は千余か所あるが、宮城の傍らに寺が一つあって、僧が三十余人おり、小乗正量部の教えを学び習っている。天神をまつる祠は二か所で、外道が入りまじって住んでいる。

2浄飯王の宮址と摩耶夫人の寝殿

宮城內有故基,凈飯王正殿也。上建精舍,中作王像。其側不遠有故基,摩訶摩耶。夫人寢殿也。上建精舍,中作夫人之像。其側精舍,是釋迦菩薩降神母胎處,中有菩薩降神之像。上座部菩薩以嗢呾羅頞沙荼月三十日夜降神母胎,當此五月十五日;諸部則以此月二十三日夜降神母胎,當此五月八日。

宮城の中に古い基があり、浄飯王の正殿である。その上に精舎を建て、中に王の像を造っている。その傍らの遠くないところに古い基があり、摩訶摩耶夫人の寝殿である。その上に精舎を建て、中に夫人の像を造っている。その傍らの精舎は、釈迦菩薩が神を降して母の胎に入られた所で、中に菩薩が神を降される像がある。上座部は、菩薩が嗢呾羅頞沙荼月の三十日の夜に神を降して母の胎に入られたといい、それはこの地の五月十五日に当たる。諸部はこの月の二十三日の夜に神を降して母の胎に入られたといい、それはこの地の五月八日に当たる。

夾注 1

唐言大術

唐の言葉では大術である。

3阿私多仙が太子の相を見る

菩薩降神東北有窣堵波,阿私多仙相太子處。菩薩誕靈之日,嘉祥輻湊。時凈飯王召諸相師而告之曰:「此子生也,善惡何若?宜悉乃心,明言以對。」曰:「依先聖之記,考吉祥之應,在家作轉輪聖王,舍家當成等正覺。」是時阿私多仙自遠而至,叩門請見。王甚慶悅,躬迎禮敬,請就寶座,曰:「不意大仙今日降顧。」仙曰:「我在天宮安居宴坐,忽見諸天群從蹈舞,我時問言:『何悅豫之甚也?』曰:『大仙當知,贍部洲中釋種凈飯王第一夫人今產太子,當證三菩提,圓明一切智。』我聞是語,故來瞻仰。所悲朽耄,不遭聖化。」

菩薩が神を降された所の東北に塔があり、阿私多仙が太子の相を見た所である。菩薩が霊しく生まれられた日、めでたい祥しが車の輻のように集まった。そのとき浄飯王は相を見る者たちを召して告げた。「この子が生まれた。善悉はどうであるか。心を尽くして、明らかに言って答えよ。」彼らは言った。「先の聖の記に依り、吉祥の応えを考えますに、家にあれば転輪聖王となり、家を捨てれば必ず等正覚を成されましょう。」このとき阿私多仙が遠くから至り、門を叩いて拝見を請うた。王はたいへん喜び、みずから迎えて礼し敬い、宝の座に就くことを請うて言った。「思いがけず大仙が今日お越しくださった。」仙は言った。「私が天宮に安らかに住んで静かに座っておりましたところ、ふと諸天の群れが連れ立って踊るのを見て、そのとき問いました。『何をそれほど喜んでいるのか。』彼らは言いました。『大仙はお知りなさい。贍部洲の中の釈迦の種族、浄飯王の第一夫人が今太子をお産みになった。必ず三菩提を証し、一切智を円かに明らかにされるだろう。』私はこの言葉を聞いて、それで仰ぎ見に参ったのです。悲しいのは、老い朽ちて聖なる教化に遭えないことです。」

4象を投げた所

城南門有窣堵波,是太子與諸釋角力擲象之處。太子伎藝多能,獨拔倫匹。凈飯大王懷慶將返,仆夫馭象,方欲出城,提婆達多素負強力,自外而入,問馭者曰:「嚴駕此象,其誰欲乘?」曰:「太子將還,故往奉馭。」提婆達多發憤引象,批其顙,蹴其臆,僵仆塞路,杜絕行途,無能轉移,人眾填塞。難陁後至,而問之曰:「誰死此象?」曰:「提婆達多。」即曳之僻路。太子至,又問曰:「誰為不善,害此象耶?」曰:「提婆達多害以杜門,難陁引之開徑。」太子乃舉象高擲,越度城塹,其象墮地,為大深坑,土俗相傳為象墮坑也。其側精舍中作太子像。其側又有精舍,太子妃寢宮也,中作耶輸陁羅,並有羅怙羅像。宮側精舍作受業之像,太子學堂故基也。

城の南門に塔があり、これは太子が釈迦の人々と力を競って象を投げた所である。太子は技と芸に能くすることが多く、ひとり同輩の中から抜きん出ていた。浄飯大王が喜びを懐いて帰ろうとされ、僕が象を馭して、まさに城を出ようとしたとき、提婆達多はもとより力が強いと自負していたが、外から入って来て馭者に問うた。「この象に馭を着けたが、誰が乗ろうとするのか。」馭者は言った。「太子がお帰りになるので、行って馭を務めようとするのです。」提婆達多は憤って象を引き寄せ、その額を打ち、その胸を蹴ったので、象は倒れて道をふさぎ、行く路が絶たれ、誰も動かすことができず、人々がぎっしりと詰まった。難陀が後から至って問うた。「誰がこの象を死なせたのか。」人々は言った。「提婆達多です。」そこで象を引いて道の片側に寄せた。太子が至って、また問われた。「誰が善くないことをして、この象を害したのか。」人々は言った。「提婆達多が害して門をふさぎ、難陀が引いて路を開きました。」太子はそこで象を持ち上げて高く投げ、城の濠を越えさせた。その象が地に落ちて大きく深い坑ができ、その地では言い伝えて象の落ちた坑という。その傍らの精舎の中に太子の像を造っている。その傍らにまた精舎があり、太子妃の寝宮である。中に耶輸陀羅の像を造り、あわせて羅怙羅の像がある。宮の傍らの精舎には学業を受ける像を造っており、太子が学んだ堂の古い基である。

5城を越えられた所

城東南隅有一精舍,中作太子乘白馬淩虛之像,是逾城處也。

城の東南の隅に精舎が一つあり、中に太子が白い馬に乗って虚空を越える像を造っている。これは城を越えられた所である。

6四つの門で見られたもの

城四門外各有精舍,中作老、病、死人、沙門之像,是太子遊觀,睹相增懷,深厭塵俗,於此感悟,命仆回駕。

城の四つの門の外にそれぞれ精舎があり、中に老いた人、病んだ人、死んだ人、沙門の像を造っている。これは太子が遊び観るうちに、その姿を見て思いを深め、塵のような俗を深く厭い、ここで感じ悟って、僕に車を返すよう命じられた所である。

7迦羅迦村馱仏がお生まれになった城

城南行五十餘里,至故城,有窣堵波,是賢劫中人壽六萬歲時迦羅伽村馱佛本生城也。城南不遠有窣堵波,成正覺已見父之處。城東南窣堵波,有彼如來遺身舍利。前建石柱,高三十餘尺,上刻師子之像,傍記寂滅之事,無憂王建焉。

城から南へ五十余里行くと古い城に至り、塔がある。これは賢劫の中で人の寿命が六万歳であったとき、迦羅迦村馱仏がお生まれになった城である。城の南の遠くないところに塔があり、正覚を成されてから父に会われた所である。城の東南の塔には、その如来の遺された身の舎利がある。前に石の柱が立っていて、高さは三十余尺、上に師子の像を刻み、傍らに寂滅の事を記している。無憂王が建てたものである。

8迦諾迦牟尼仏がお生まれになった城

迦羅迦村馱佛城東北行三十餘里,至故大城,中有窣堵波,是賢劫中人壽四萬歲時,迦諾迦牟尼佛本生城也。東北不遠有窣堵波,成正覺已度父之處。次北窣堵波,有彼如來遺身舍利。前建石柱,高二十餘尺,上刻師子之像,傍記寂滅之事,無憂王之所建也。

迦羅迦村馱仏の城から東北へ三十余里行くと、古い大きな城に至り、その中に塔がある。これは賢劫の中で人の寿命が四万歳であったとき、迦諾迦牟尼仏がお生まれになった城である。東北の遠くないところに塔があり、正覚を成されてから父を救われた所である。次に北の塔には、その如来の遺された身の舎利がある。前に石の柱が立っていて、高さは二十余尺、上に師子の像を刻み、傍らに寂滅の事を記している。無憂王が建てたものである。

9木の陰で田を耕すのを観られる

城東北四十餘里,有窣堵波,是太子坐樹陰,觀耕田,於此習定,而得離欲。凈飯王見太子坐樹陰,入寂定,日光回照,樹影不移,心知靈聖,更深珍敬。

城の東北四十余里に塔があり、これは太子が木の陰に座って田を耕すのを観るうちに、ここで定を習って欲を離れられた所である。浄飯王は太子が木の陰に座って寂かな定に入っているのを見たが、日の光がめぐり照っても木の影は移らなかった。心に霊しく聖であることを知り、いよいよ深く珍び敬った。

10釈迦の人々が誅された所

大城西北,有數百千窣堵波,釋種誅死處也。毗戶擇迦王既克諸釋,虜其族類,得九千九百九十萬人,並從殺戮,積屍如莽,流血成池。天警人心,收骸瘞葬。

大きな城の西北に数百、数千の塔があり、釈迦の種族が誅され死んだ所である。毗戸擇迦王は釈迦の人々を破り、その族類を虜にして九千九百九十万人を得、ことごとく殺したので、屍は茂る草のように積まれ、流れる血は池をなした。天が人の心を警し、骸を収めて埋め葬った。

11軍を拒んだ四人

誅釋西南,有四小窣堵波,四釋種拒軍處。初,勝軍王嗣位也,求婚釋種。釋種鄙其非類,謬以家人之女,重禮娉焉。勝軍王立為正後,其產子男,是為毗盧擇迦王。毗盧擇迦王欲就舅氏請益受業,至此城南,見新講堂,即中憩駕。諸釋聞之,逐而詈曰:「卑賤婢子,敢居此室!此室諸釋建也,擬佛居焉。」毗盧擇迦嗣位之後,追復前辱,便興甲兵,至此屯軍。釋種四人躬耕畎畝,便即抗拒。兵寇退散,已而入城。族人以為承輪王之祚胤,為法王之宗子,敢行兇暴,安忍殺害,汙辱宗門,絕親遠放。四人被逐,北趣雪山,一為烏仗那國王,一為梵衍那國王,一為呬摩呾羅國王,一為商彌國王,奕世傳業,苗裔不絕。

釈迦を誅した所の西南に小さな塔が四つあり、釈迦の種族の四人が軍を拒んだ所である。はじめ、勝軍王が位を嗣いだとき、釈迦の種族に婚を求めた。釈迦の人々はその同類でないことを卑しみ、偽って家人の娘を重い礼で嫁がせた。勝軍王は彼女を立てて正后とし、その産んだ男の子が毗盧擇迦王である。毗盧擇迦王が母方の家に行って教えを請い学業を受けようとして、この城の南に至ったとき、新しい講堂を見て、すぐその中で車を休めた。釈迦の人々はこれを聞いて追い出し、罵って言った。「卑しく賤しい婢の子が、よくもこの室にいるものだ。この室は釈迦の人々が建てたもので、仏がおられる所としたのだ。」毗盧擇迦は位を嗣いだ後、先の辱めに報いようとして、すぐに兵を興し、ここに至って軍を屯した。釈迦の種族の四人がみずから畑を耕していたが、そのまま立ち向かって拒んだので、兵も寇も退いて散り、やがて四人は城に入った。族の人々は、転輪王の福を継いだ裔であり、法王の宗たる子でありながら、よくも凶暴を行い、殺し害することを忍んで、宗門を汚し辱めたとして、親しみを絶って遠くへ追い放った。四人は追われて北の雪山へ赴き、一人は烏仗那国の王となり、一人は梵衍那国の王となり、一人は呬摩呾羅国の王となり、一人は商彌国の王となって、代々業を伝え、後裔が絶えなかった。

12仏が父に会いに還られる

城南三四里尼拘律樹林有窣堵波,無憂王建也。釋迦如來成正覺已,還國見父王為說法處。凈飯王知如來降魔軍已,遊行化導,情懷渴仰,思得禮敬。乃命使請如來曰:「昔期成佛,當還本生。斯言在耳,時來降趾。」使至佛所,具宣王意。如來告曰:「卻後七日,當還本生。」使臣還以白王,凈飯王乃告命臣庶掃灑衢路,儲積香花,與諸群臣四十里外佇駕奉迎。是時如來與大眾俱,八金剛周衛,四天王前導,帝釋與欲界天侍左,梵王與色界天侍右,諸苾芻僧列在其後。維佛在眾,如月映星,威神動三界,光明逾七曜,步虛空,至本生國。王與從臣禮敬已畢,俱共還國,止尼拘盧陁僧伽藍。其側不遠有窣堵波,是如來於大樹下,東面而坐,受姨母金縷袈裟。次此窣堵波,是如來於此度八王子及五百釋種處。

城の南三、四里の尼拘律の樹の林に塔があり、無憂王が建てたものである。釈迦如来が正覚を成されてから国に還り、父の王に会って法を説かれた所である。浄飯王は、如来が魔の軍を降してから遊び行いて教化し導かれていることを知り、心に渇くように仰ぎ慕って、礼し敬うことを願った。そこで使いに命じて如来に請うた。「昔、仏を成したならば必ず生まれた所に還ると期されました。その言葉は耳に残っております。時が来ましたので、どうか足をお運びください。」使いは仏のもとに至り、王の意をつぶさに申し上げた。如来は告げられた。「七日の後に、必ず生まれた所に還ろう。」使臣は帰って王に申し上げ、浄飯王はそこで臣下と民に命じて街路を掃き清め水を灑ぎ、香と花を積み蓄えさせ、臣下たちとともに四十里の外で車を待って奉り迎えた。このとき如来は大勢の衆とともにおられ、八人の金剛があまねく護り、四天王が前を導き、帝釈が欲界の天とともに左に侍り、梵王が色界の天とともに右に侍り、比丘の僧たちがその後に列をなしていた。ただ仏が衆の中におられるさまは、月が星を照らすようであった。威と神しき力は三界を動かし、明るい光は七曜をしのぎ、虚空を歩んで生まれた国に至られた。王と従う臣が礼し敬い終えると、ともに国に還って尼拘盧陀の僧伽藍にとどまられた。その傍らの遠くないところに塔があり、これは如来が大きな樹の下で東に面して座り、姨母から金の縷の袈裟を受けられた所である。この塔の次は、如来がここで八人の王子と五百人の釈迦の種族を救われた所である。

13石の天の像が立って太子を迎える

城東門內路左有窣堵波,昔一切義成太子於此習諸技藝。門外有自在天祠,祠中石天像,危然起勢,是太子在繈褓中所入祠也。凈飯王自臘伐尼園迎太子還也,途次天祠。王曰:「此天祠多靈鑒,諸釋童稚求祐必效,宜將太子至彼修敬。」是時傅母抱而入祠,其石天像起迎太子,太子已出,天像復坐。

城の東門の内の道の左に塔があり、昔、一切義成太子がここでさまざまな技と芸を習った。門の外に自在天の祠があり、祠の中の石の天の像は高く立ち上がる勢いである。これは太子が襁褓にあったとき入られた祠である。浄飯王が臘伐尼園から太子を迎えて還るとき、途中に天の祠があった。王は言った。「この天の祠は霊しき鑑みが多く、釈迦の童たちが加護を求めれば必ず効がある。太子をあちらへ連れて行って敬いを修めさせよ。」このとき傅母が抱いて祠に入ると、その石の天の像が立ち上がって太子を迎え、太子が出ると、天の像はまた座った。

14矢が貫いて湧いた泉

城南門外路左有窣堵波,是太子與諸釋角藝,射鐵鼓。從此東南三十餘里,有小窣堵波,其側有泉,泉流澄鏡,是太子與諸釋引強校能,弦矢既分,穿鼓過表,至地沒羽,因湧清流。時俗相傳,謂之箭泉。夫有疾病,飲沐多愈。遠方之人持泥以歸,隨其所苦,漬以塗額,靈神冥衛,多蒙痊愈。

城の南門の外の道の左に塔があり、これは太子が釈迦の人々と芸を競って鉄の鼓を射た所である。ここから東南へ三十余里に小さな塔があり、その傍らに泉がある。泉の流れは澄んで鏡のようである。これは太子が釈迦の人々と弓を引いて能を比べたとき、弦と矢が放たれると、鼓を貫き的を越えて地に至り、羽まで埋まって、それによって清い流れが湧き出た所である。その地では言い伝えて箭の泉という。およそ病のある者が飲み浴びると癒えることが多い。遠方の人は泥を持ち帰り、その苦しむところに応じて浸して額に塗ると、霊しき神が目に見えず護り、癒えることが多い。

15臘伐尼 — 太子がお生まれになった所

箭泉東北行八九十里,至臘伐尼林,有釋種浴池。澄清皎鏡,雜花彌漫。其北二十四五步,有無憂花樹,今已枯悴,菩薩誕靈之處。菩薩以吠舍佉月後半八日,當此三月八日;上座部則曰以吠舍佉月後半十五日,當此三月十五日。次東窣堵波,無憂王所建,二龍浴太子處也。菩薩生已,不扶而行於四方各七步,而自言曰:「天上天下,唯吾獨尊。今茲而往,生分已盡。」隨足所蹈,出大蓮花。二龍踴出,住虛空中,而各吐水,一冷一暖,以浴太子。浴太子窣堵波東,有二清泉,傍建二窣堵波,是二龍從地踴出之處。菩薩生已,支屬宗親莫不奔馳,求水盥浴。夫人之前,二泉湧出,一冷一暖,遂以浴洗。其南窣堵波,是天帝釋捧接菩薩處。菩薩初出胎也,天帝釋以妙天衣,跪接菩薩。次有四窣堵波,是四天王抱持菩薩處也。菩薩從右脅生已,四大天王以金色氎衣捧菩薩,置金機上。至母前曰:「夫人誕斯福子,誠可歡慶。諸天尚喜,況世人乎?」

箭の泉から東北へ八、九十里行くと臘伐尼の林に至り、釈迦の種族が浴した池がある。澄んで清らかで明るい鏡のようであり、さまざまな花が一面に広がっている。その北二十四、五歩に無憂花の樹があり、今はすでに枯れ衰えているが、菩薩が霊しく生まれられた所である。菩薩は吠舎佉月の後半八日に生まれられ、それはこの地の三月八日に当たる。上座部は吠舎佉月の後半十五日というので、それはこの地の三月十五日に当たる。次に東の塔は無憂王が建てたもので、二匹の龍が太子を浴させた所である。菩薩が生まれられると、支えられずに四方へそれぞれ七歩を歩み、みずから言われた。「天の上、天の下に、ただ私ひとりが尊い。今より往きて、生の分はすでに尽きた。」足が踏むところに従って、大きな蓮華が生じた。二匹の龍が躍り出て虚空の中にとどまり、それぞれ水を吐いたが、一つは冷たく一つは暖かく、それで太子を浴させた。太子を浴させた塔の東に清い泉が二つあり、傍らに塔を二つ建てている。これは二匹の龍が地から躍り出た所である。菩薩が生まれられると、親族や縁者は走らない者がなく、水を求めて洗い浴させようとしたが、夫人の前に泉が二つ湧き出て、一つは冷たく一つは暖かく、ついにそれで洗った。その南の塔は、天帝釈が菩薩を捧げ受けた所である。菩薩が初めて胎を出られると、天帝釈は妙なる天の衣で、跪いて菩薩を受けた。次に塔が四つあり、これは四天王が菩薩を抱き持った所である。菩薩が右の脇から生まれられると、四人の大天王は金色の木綿の衣で菩薩を捧げ、金の机の上に置き、母の前に至って言った。「夫人がこの福ある子をお産みになったのは、まことに喜び祝うべきことです。諸天すら喜ぶのですから、世の人はなおさらでしょう。」

16馬を刻んだ石の柱と油の川

四天王捧太子窣堵波側不遠,有大石柱,上作馬像,天憂王之所建也。後為惡龍霹靂,其柱中折仆地。傍有小河,東南流,土俗號曰油河。是摩耶夫人產孕已,天化此池,光潤澄凈,欲令夫人取以沐浴,除去風虛。今變為水,其流尚膩。

四天王が太子を捧げた塔の傍らの遠くないところに大きな石の柱があり、上に馬の像を造っている。無憂王が建てたものである(底本には「天憂王」とあるが、無憂王の誤りである)。後に悪しき龍の雷に打たれて、その柱は中ほどで折れて地に倒れた。傍らに小さな川があって東南へ流れ、その地では油の川と呼ぶ。これは摩耶夫人が子を産まれた後、天がこの池を造り、光り潤って澄み清らかにし、夫人がそれで沐浴して風と虚とを除かれるようにしたものである。今は水に変わったが、その流れはなお脂のようである。

從此東行曠野荒林中二百餘里,至藍摩國。

ここから東へ、曠野と荒れた林の中を二百余里行くと、藍摩国に至る。

夾注 1

中印度境。

中印度の境である。