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摩訶剌侘国摩訶剌侘國

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 大唐西域記 · 玄奘 著 · 辯機 編 · 646年(唐・貞観20年) · 段落 6 · 漢字 730字 · 朗読 2.9分

大唐西域記(大唐の西域をめぐる記) 第11巻 玄奘が十七年のあいだ西域とインドの百三十八か国を踏んで帰り、唐の太宗に奉った記録。西遊記のもとになった書だが、ここにあるのは妖怪ではなく、国ごとの広さと気候と言葉と信仰である。法顕より二百年後、慧超より八十年前の道である。

摩訶剌侘國周六千餘里,國大都城西臨大河,周三十餘里。土地沃壤,稼穡殷盛。氣序溫暑,風俗淳質。其形偉大,其性傲逸,有恩必報,有怨必復。人或淩辱,殉命以讎,窘急投分,忘身以濟。將復怨也,必先告之,各披堅甲,然後爭鋒。臨陣逐北,不殺已降。兵將失利,無所刑罰,賜之女服,感激自死。國養勇士,有數百人,每將決戰,飲酒酣醉,一人摧鋒,萬夫挫銳。遇人肆害,國刑不加,每出遊行,擊鼓前導。復飼暴象,凡數百頭,將欲陣戰,亦先飲酒,群馳蹈踐,前無堅敵。其王恃此人象,輕陵鄰國。王,剎帝利種也,名補羅稽舍,謀猷弘遠,仁慈廣被,臣下事之,盡其忠矣。今戒日大王東征西伐,遠賓邇肅,惟此國人獨不臣伏。屢率五印度甲兵,及募召諸國烈將,躬往討伐,猶未克勝。其兵也如此,其俗也如彼。人知好學,邪正兼崇。伽藍百餘所,僧徒五千餘人,大小二乘兼功綜習。天祠百所,異道甚多。

摩訶剌侘国は周り六千余里である。国の大都城は西で大きな河に臨み、周り三十余里である。土地は沃えた壌で、植え収めることが殷んに盛んである。気候は温かく暑く、風俗は淳く質しい。その形は偉く大きく、その性は傲り逸れており、恩があれば必ず報い、怨みがあれば必ず復える。人がもし淩ぎ辱めれば、命を殉じて讎い、窘しく急な者が分を投じてくれば、身を忘れて済う。怨みを復えようとするときは、必ず先にそれを告げ、それぞれ堅い甲を披いてから、鋒を争う。陣に臨んで北げる者を逐うが、すでに降った者は殺さない。兵や将が利を失っても、刑し罰するところはなく、女の服を賜うので、感じ激して自ら死ぬ。国は勇しい士を養い、数百人がある。決戦しようとするたびに、酒を飲んで酣く酔う。一人が鋒を摧けば、万の夫が鋭さを挫く。人に遇って肆に害っても、国の刑を加えず、出て遊び行くたびに、鼓を撃って前に導く。また暴しい象を飼い、およそ数百頭ある。まさに陣して戦おうとすると、これにもまず酒を飲ませ、群れ馳せて蹈み踐ませるので、前に堅い敵がない。その王はこの人と象を恃んで、隣の国を軽んじ陵ぐ。王は剎帝利の種であって、名は補羅稽舍という。謀も猷も弘く遠く、仁しみも慈しみも広く被うので、臣下が事えてその忠を尽くす。今、戒日大王は東を征ち西を伐って、遠きは賓となり邇きは肅まっているが、ただこの国の人だけが独り臣として伏さない。しばしば五つのインドの甲の兵を率い、また諸々の国の烈しい将を募り召して、躬ら往って討ち伐ったが、なお克ち勝つことができない。その兵はこのようであり、その俗はあのようである。人は学を好むことを知り、邪なものも正しいものも兼ねて崇める。伽藍は百余ヶ所、僧徒は五千余人で、大小二乗を兼ね功めて綜べ習う。天祠は百ヶ所、異道の者はきわめて多い。

2無憂王の五つの窣堵波

大城內外五窣堵波,並過去四佛坐及經行遺跡之所,無憂王建也。自餘石磚諸窣堵波,其數甚多,難用備舉。

大きな城の内と外に窣堵波が五つあり、いずれも過去の四仏が坐し、経行された遺跡の処で、無憂王が建てたものである。それ以外の石や磚の諸々の窣堵波は、その数がきわめて多く、備え挙げがたい。

3観自在菩薩の石の像

城南不遠有故伽藍,中有觀自在菩薩石像,靈鑒潛被,願求多果。

城の南、遠くないところに故い伽藍があり、中に観自在菩薩の石の像がある。霊しい鑒らしが潜かに被い、願い求めれば果たされることが多い。

4阿折羅羅漢が建てた伽藍

國東境有大山,疊嶺連嶂,重巒絕巘。爰有伽藍,基於幽谷,高堂邃宇,疏崖枕峰,重閣層臺,背巖面壑,阿折羅阿羅漢所建。羅漢,西印度人也,其母既終,觀生何趣,見於此國受女人身。羅漢遂來至此,將欲導化,隨機攝受。入里乞食,至母生家,女子持食來施,乳便流汁,親屬既見,以為不祥。羅漢說本因緣,女子便證聖果。羅漢感生育之恩,懷業緣之致,將酬厚德,建此伽藍。

国の東の境に大きな山があり、疊なる嶺が嶂を連ね、重なる巒が巘を絶っている。そこに伽藍があり、幽かな谷に基を置いている。高い堂と邃い宇が崖を疏いて峰を枕にし、重なる閣と層なす臺が巌を背にして壑に面している。阿折羅阿羅漢が建てたものである。羅漢は西インドの人である。その母がすでに終わったので、どの趣に生まれたかを観たところ、この国で女人の身を受けたのが見えた。羅漢はそこでここに来至り、まさに導き化そうとして、機に随って摂め受けた。里に入って食を乞い、母が生まれた家に至ると、女子が食を持って来て施したが、乳がそのまま汁を流した。親しい属が見て、それを祥しくないものと考えたので、羅漢が本の因縁を説くと、女子はそのまま聖なる果を証した。羅漢は生み育ててくれた恩に感じ、業の縁の致すところを懷いて、まさに厚い徳に酬いようとして、この伽藍を建てた。

夾注 1

唐言所行。

唐の言葉では所行である。

5七重の石の蓋

伽藍大精舍高百餘尺,中有石佛像,高七十餘尺,上有石蓋七重,虛懸無綴,蓋間相去各三尺餘。聞諸先誌曰:斯乃羅漢願力之所持也。或曰神通之力,或曰藥術之功。考厥實錄,未詳其致。精舍四周雕鏤石壁,作如來在昔修菩薩行諸因地事。證聖果之禎祥,入寂滅之靈運,巨細無遺,備盡鐫鏤。伽藍門外南北左右,各一石象。聞之土俗曰:此象時大聲吼,地為震動。昔陳那菩薩多止此伽藍。

伽藍の大きな精舍は高さ百余尺で、中に石の仏像があり、高さは七十余尺である。上に石の蓋が七重あって、虚に懸かって綴ぐものがなく、蓋の間は互いに三尺余りずつ離れている。先の誌に聞くところによると、これは羅漢の願の力が持つところであるという。あるいは神通の力といい、あるいは薬術の功という。その実の録を考えても、その致すところは詳らかでない。精舍の四周の雕り鏤めた石の壁には、如来が昔、菩薩の行を修められた諸々の因地の事を作っている。聖なる果を証された禎しい祥も、寂滅に入られた霊しい運も、巨きなものも細かなものも遺さず、備えて鐫り鏤め尽くしている。伽藍の門の外、南と北の左右に、それぞれ一つの石の象がある。その土の俗に聞くところによると、「この象がときおり大きな声で吼えると、地がそのために震え動く」という。昔、陳那菩薩はこの伽藍に多く止まった。

自此西行千餘里,渡耐襪陁河,至跋祿羯呫婆國。

ここから西へ千余里行き、耐襪陀河を渡ると、跋祿羯呫婆国に至る。

夾注 2

昌葉反。

昌と葉の反である。

南印度境。

南インドの境である。