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扶南国扶南國

梁書 諸夷伝(梁書に記された諸夷の記録) 梁書 諸夷傳 · 姚思廉 · 636年(唐・貞観10年) · 段落 19 · 漢字 3,103字 · 朗読 12.4分

梁書 諸夷伝(梁書に記された諸夷の記録) 全一巻 南朝の梁が見た三十六か国。武寧王が「再び強国となった」と知らせた表文、新羅が初めて自らの名で現れる記録、仏の髪と阿育王塔の話、そして扶桑国・女人国のような海の果ての伝説まで — 南海から西域に至る最も幅広い諸夷伝である。

1扶南の地

扶南國,在日南郡之南海西大灣中,去日南可七千里,在林邑西南三千餘里。城去海五百里。有大江廣十里,西北流,東入於海。其國輪廣三千餘里,土地洿下而平博,氣候風俗大較與林邑同。出金、銀、銅、錫、沉木香、象牙、孔翠、五色鸚鵡。

扶南国は、日南郡の南、海の西の大きな湾の中にあり、日南から七千里ほど、林邑の西南三千余里にある。城は海から五百里である。幅十里の大きな川があって、西北から流れ、東へ海に入る。その国は周り三千余里で、土地は低く平らで広く、気候と風俗はおおむね林邑と同じである。金・銀・銅・錫・沈木香・象牙・孔雀と翡翠・五色の鸚鵡を産する。

2頓遜国

其南界三千餘里有頓遜國,在海崎上,地方千里,城去海十里。有五王,並羈屬扶南。頓遜之東界通交州,其西界接天竺、安息徼外諸國,往還交市。所以然者,頓遜回入海中千餘里,漲海無崖岸,船舶未曾得徑過也。其市,東西交會,日有萬餘人。珍物寶貨,無所不有。又有酒樹,似安石榴,采其花汁停甕中,數日成酒。

その南の境、三千余里に頓遜国があり、海の崎の上にあって、地は方千里、城は海から十里である。五人の王があり、いずれも扶南に羈属している。頓遜の東の境は交州に通じ、西の境は天竺・安息の辺境の外の諸国に接して、行き来して交易する。そうである理由は、頓遜が海の中へ千余里もめぐり入っており、漲海は岸の果てがなく、船がまっすぐ通り過ぎられたことがないからである。その市は東と西が行き交って集まり、日ごとに一万余人があって、珍しい物や宝貨で、ないものはない。また酒の木があり、安石榴に似ていて、その花の汁を採って甕にためておくと、数日で酒になる。

3長頸王の毗騫国

頓遜之外,大海洲中,又有毗騫國,去扶南八千里。傳其王身長丈二,頭長三尺,自古來不死,莫知其年。王神聖,國中人善惡及將來事,王皆知之,是以無敢欺者。南方號曰長頸王。國俗,有室屋、衣服,噉粳米。其人言語,小異扶南。有山出金,金露生石上,無所限也。國法刑罪人,並于王前噉其肉。國內不受估客,有往者亦殺而噉之,是以商旅不敢至。王常樓居,不血食,不事鬼神。其子孫生死如常人,唯王不死。扶南王數遣使與書相報答,常遺扶南王純金五十人食器,形如圓盤,又如瓦塸,名爲多羅,受五升,又如碗者,受一升。王亦能作天竺書,書可三千言,說其宿命所由,與佛經相似,並論善事。

頓遜の外、大海の島の中に、また毗騫国があり、扶南から八千里である。伝えるところでは、その王は身の丈一丈二尺、頭の長さ三尺で、昔から死なず、その年を知る者がない。王は神聖で、国中の人の善悪や将来の事をみな知っているので、あえて欺く者がない。南方ではこれを長頸王と号する。国の風俗には家屋と衣服があり、粳米を食べる。その人の言葉は扶南と少し違う。金を出す山があり、金は石の上に露わに生じて、限りがない。国の法では罪人を刑するとき、みな王の前でその肉を食べる。国内に商人を受け入れず、行く者があればやはり殺して食べるので、商人はあえて至らない。王はいつも高殿に住み、血のある物を食べず、鬼神も祭らない。その子孫は生き死にが常の人と同じで、ただ王だけが死なない。扶南王はたびたび使者と書を遣わして互いに答え合い、いつも扶南王に純金の五十人分の食器を贈る。形は丸い盤のようで、また瓦の鉢のようなものは多羅と名づけて五升が入り、碗のようなものは一升が入る。王はまた天竺の書を作ることができ、書は三千言ほどで、自分の宿命の由来を説くが、仏経と似ており、あわせて善い事を論じている。

4火の中に生える木

又傳扶南東界卽大漲海,海中有大洲,洲上有諸薄國,國東有馬五洲。復東行漲海千餘里,至自然大洲。其上有樹生火中,洲左近人剝取其皮,紡績作布,極得數尺以爲手巾,與焦麻無異而色微青黑;若小垢洿,則投火中,復更精潔。或作燈炷,用之不知盡。

また伝えるところでは、扶南の東の境はすなわち大きな漲海で、海の中に大きな島があり、島の上に諸薄国があって、国の東に馬五洲がある。さらに東へ漲海を千余里行くと、自然大洲に至る。その上に火の中に生える木があり、島の近くの人がその皮を剥ぎ取り、紡いで布を織るが、せいぜい数尺で手巾を作る。焦麻と変わらないが、色がやや青黒い。少し汚れたときは火の中に投げ入れれば、また清らかになる。あるいは灯心を作れば、使っても尽きることを知らない。

5柳葉と混塡

扶南國俗本裸體,文身被髮,不制衣裳。以女人爲王,號曰柳葉。年少壯健,有似男子。其南有徼國,有事鬼神者字混填,夢神賜之弓,乘賈人舶入海。混填晨起卽詣廟,於神樹下得弓,便依夢乘船入海,遂入扶南外邑。柳葉人衆見舶至,欲取之,混填卽張弓射其舶,穿度一面,矢及侍者,柳葉大懼,舉衆降混填。混填乃教柳葉穿布貫頭,形不復露,遂治其國,納柳葉爲妻,生子分王七邑。其後王混盤況以詐力間諸邑,令相疑阻,因舉兵攻幷之,乃遣子孫中分治諸邑,號曰小王。

扶南国の風俗は、もとは裸で、身に文を入れ、髪を解き、衣裳を作らなかった。女を王として、柳葉と号した。年は若く壮健で、男子のようであった。その南に徼国があり、鬼神を祭る者で混塡という者がいた。夢に神が弓を授け、商人の船に乗って海に入れと告げた。混塡は朝起きるとすぐ廟に行き、神の木の下で弓を得て、そのまま夢のとおり船に乗って海に入り、ついに扶南の外の邑に入った。柳葉の人々は船が来たのを見てこれを奪おうとしたので、混塡はすぐに弓を張ってその船を射ると、一面を貫き通して矢が侍者にまで及んだ。柳葉は大いに恐れ、衆を挙げて混塡に降った。混塡はそこで柳葉に、布に穴を開けて頭を通すことを教え、体が再び露わにならないようにし、ついにその国を治め、柳葉を妻に迎えて子を生み、七つの邑に分けて王とさせた。その後の王、混盤況は偽りと力で諸邑を仲たがいさせ、互いに疑い隔てるようにして、それに乗じて兵を挙げて攻め併せ、そうして子孫を遣わして諸邑を分けて治めさせ、小王と号した。

6范蔓の征服と神判

盤況年九十餘乃死,立中子盤盤,以國事委其大將范蔓。盤盤立三年死,國人共舉蔓爲王。蔓勇健有權略,復以兵威攻伐旁國,咸服屬之,自號扶南大王。乃治作大船,窮漲海,攻屈都昆、九稚、典孫等十餘國,開地五六千里。次當伐金鄰國,蔓遇疾,遣太子金生代行。蔓姊子旃,時爲二千人將,因篡蔓自立,遣人詐金生而殺之。蔓死時,有乳下兒名長,在民間,至年二十,乃結國中壯士襲殺旃,旃大將范尋又殺長而自立。更繕治國內,起觀閣遊戲之,朝旦中晡三四見客。民人以焦蔗龜鳥爲禮。國法無牢獄。有罪者,先齋戒三日,乃燒斧極赤,令訟者捧行七步。又以金鐶、雞卵投沸湯中,令探取之,若無實者,手卽焦爛,有理者則不。又於城溝中養鰐魚,門外圈猛獸,有罪者,輒以喂猛獸及鰐魚,魚獸不食爲無罪,三日乃放之。鰐大者長二丈餘,狀如鼉,有四足,喙長六七尺,兩邊有齒,利如刀劍,常食魚,遇得麞鹿及人亦噉之,蒼梧以南及外國皆有之。

盤況は九十余で死に、中の子の盤盤を立て、国の事を大将の范蔓に委ねた。盤盤は立って三年で死に、国人はともに蔓を挙げて王とした。蔓は勇敢で強く、権謀があり、さらに兵の威で傍らの国を攻め伐ってみな服属させ、自ら扶南大王と号した。そこで大きな船を造り、漲海を極めてめぐり、屈都昆・九稚・典孫など十余国を攻め、地を五、六千里開いた。次に金鄰国を伐とうとしたが、蔓は病にかかり、太子の金生を代わりに行かせた。蔓の姉の子の旃は、その時二千人の将であったが、それに乗じて蔓を簒奪して自ら立ち、人を遣わして金生を騙して殺した。蔓が死んだとき、乳飲み子で長という名の子が民間にいたが、二十歳になると国中の壮士を結んで旃を襲い殺した。旃の大将の范尋がまた長を殺して自ら位についた。あらためて国内を整え、観閣を建てて遊び、朝・昼・夕に三、四度客に会った。民は芭蕉・さとうきび・亀・鳥を礼物とした。国の法に牢獄がなく、罪のある者は、まず三日斎戒させ、そうして斧を焼いて真っ赤にし、訴える者にこれを捧げ持って七歩歩かせる。また金の輪と鶏の卵を煮え立つ湯の中に投げ入れ、探って取らせる。もし真実のない者は手がたちまち焼け爛れ、理のある者はそうならない。また城の堀の中に鰐魚を飼い、門の外に猛獣を囲っておき、罪のある者をそのまま猛獣や鰐魚に食わせる。魚や獣が食わなければ罪なしとして、三日して放す。鰐は大きいものは長さ二丈余りで、姿は鼉のようで四つ足があり、口先は六、七尺、両の縁に歯があって刀剣のように鋭い。いつも魚を食べるが、麞や鹿、人に出会えばやはり食べてしまう。蒼梧より南と外の国にはみなこれがいる。

7横幅の衣の由来

吳時,遣中郎康泰、宣化從事朱應使於尋國,國人猶裸,唯婦人著貫頭。泰、應謂曰:「國中實佳,但人褻露可怪耳。」尋始令國內男子著橫幅。橫幅,今干漫也。大家乃截錦爲之,貧者乃用布。

呉の時、中郎の康泰と宣化従事の朱応を尋の国へ使いさせたが、国の人はなお裸で、ただ婦人だけが頭を通す衣を着ていた。泰と応は「国の中はまことに佳いが、ただ人が肌を露わにしているのが怪しいだけです」と言った。尋はそこではじめて国内の男子に横幅を着けさせた。横幅とは、今の干漫である。大きな家は錦を裁ってこれを作り、貧しい者は布を用いた。

8憍陳如の新しい法

晉武帝太康中,尋始遣使貢獻。穆帝升平元年,王竺旃檀奉表獻馴象。詔曰:「此物勞費不少,駐令勿送。」其後王憍陳如,本天竺婆羅門也。有神語曰「應王扶南」,憍陳如心悅,南至盤盤,扶南人聞之,舉國欣戴,迎而立焉。復改制度,用天竺法。憍陳如死,後王持梨陁跋摩,宋文帝世奉表獻方物。齊永明中,王闍邪跋摩遣使貢獻。

晋の武帝の太康年間、尋がはじめて使者を遣わして貢物を献じた。穆帝の升平元年、王の竺旃檀が表を奉じて馴らした象を献じたが、詔して「この物は労費が少なくない。とどめて送らせぬようにせよ」と言った。その後の王、憍陳如は、もと天竺の婆羅門である。神が「まさに扶南に王となるべし」と告げたので、憍陳如は心に喜び、南へ下って盤盤に至った。扶南の人はこれを聞き、国を挙げて喜び仰ぎ、迎えてこれを立てた。あらためて制度を改め、天竺の法を用いた。憍陳如が死に、後の王、持梨陁跋摩が、宋の文帝の世に表を奉じて方物を献じた。斉の永明年間、王の闍邪跋摩が使者を遣わして貢物を献じた。

9安南将軍・扶南王

天監二年,跋摩復遣使送珊瑚佛像,幷獻方物。詔曰:「扶南王憍陳如闍邪跋摩,介居海表,世纂南服,厥誠遠著,重譯獻賝。宜蒙酬納,班以榮號。可安南將軍、扶南王。」

天監二年、跋摩が再び使者を遣わして珊瑚の仏像を送り、あわせて方物を献じたので、詔して言った。「扶南王の憍陳如闍邪跋摩は、海の外に身を置きながら、代々南の服属を継ぎ、その誠は遠くまで著れ、幾重の通訳を経て宝を献じている。報い受け入れて、栄えある称号を班ち与えるのがよい。安南将軍・扶南王とする。」

10扶南の風俗

今其國人皆醜黑,拳髮。所居不穿井,數十家共一池引汲之。俗事天神,天神以銅爲像,二面者四手,四面者八手,手各有所持,或小兒,或鳥獸,或日月。其王出入乘象,嬪侍亦然。王坐則偏踞翹膝,垂左膝至地,以白疊敷前,設金盆香爐於其上。國俗,居喪則剃除鬚髮。死者有四葬:水葬則投之江流,火葬則焚爲灰燼,土葬則瘞埋之,鳥葬則棄之中野。人性貪吝,無禮義,男女恣其奔隨。

今、その国の人はみな醜く黒く、縮れ毛である。住む所に井戸を掘らず、数十家が一つの池を共にして汲み上げる。風俗は天神を祭り、天神は銅で像を造るが、二つの面のものは四つの手、四つの面のものは八つの手で、手にはそれぞれ持つものがあり、あるいは幼い子、あるいは鳥や獣、あるいは日や月である。その王は出入りに象に乗り、嬪や侍る者もそうである。王が座るときは片方に寄りかかって膝を立て、左の膝を地に垂れ、白い布を前に敷き、金の盆と香炉をその上に置く。国の風俗で、喪に居るときは鬚と髪を剃り落とす。死者には四つの葬りがある。水葬は川の流れに投げ、火葬は焼いて灰にし、土葬は埋め、鳥葬は野の中に捨てる。人の性は貪り吝かで、礼義がなく、男女は気ままに連れ添う。

11仏の髪

十年、十三年,跋摩累遣使貢獻。其年死,庶子留陁跋摩殺其嫡弟自立。十六年,遣使竺當抱老奉表貢獻。十八年,復遣使送天竺旃檀瑞像、婆羅樹葉,幷獻火齊珠、鬱金、蘇合等香。普通元年、中大通二年、大同元年,累遣使瑞獻方物。五年,復遣使獻生犀。又言其國有佛髮,長一丈二尺,詔遣沙門釋雲寶隨使往迎之。

十年、十三年、跋摩はたびたび使者を遣わして貢物を献じた。その年に死に、庶子の留陁跋摩がその嫡の弟を殺して自ら立った。十六年、使者の竺当抱老を遣わして表を奉じ、貢物を献じた。十八年、再び使者を遣わして天竺の旃檀の瑞像と婆羅樹の葉を送り、あわせて火斉珠・鬱金・蘇合などの香を献じた。普通元年、中大通二年、大同元年、たびたび使者を遣わして方物を献じた。五年、再び使者を遣わして生きた犀を献じた。また、その国に仏の髪があって長さ一丈二尺であると言ったので、詔して沙門の釈雲宝を遣わし、使者に従って行ってこれを迎えさせた。

夾注 1

累遣使瑞獻方物

累遣使瑞獻方物 — 底本は「瑞」であるが、「貢」の誤りと見る。 ― 訳者

12高祖が得た仏の髪

先是,三年八月,高祖改造阿育王寺塔,出舊塔下舍利及佛爪髮。髮青紺色,衆僧以手伸之,隨手長短,放之則旋屈爲蠡形。案《僧伽經》云:「佛髮青而細,猶如藕莖絲。」《佛三昧經》云:「我昔在宮沐頭,以尺量髮,長一丈二尺,放已右旋,還成蠡文。」則與高祖所得同也。

これより先、三年八月、高祖が阿育王寺の塔を改め造り、旧い塔の下の舎利と仏の爪・髪を取り出した。髪は青紺の色で、僧たちが手で伸ばすと手に従って長くも短くもなり、放すとめぐり屈んで螺の形になった。『僧伽経』を調べると「仏の髪は青くて細く、ちょうど蓮の茎の糸のようである」と言い、『仏三昧経』に「わたしは昔、宮で頭を洗い、尺で髪を量ると長さ一丈二尺であった。放すと右にめぐって、また螺の文になった」と言う。高祖が得たものと同じである。

13阿育王塔の由来

阿育王卽鐵輪王,王閻浮提,一天下,佛滅度後,一日一夜,役鬼神造八萬四千塔,此卽其一也。吳時有尼居其地,爲小精舍,孫綝尋毀除之,塔亦同泯。吳平後,諸道人復於舊處建立焉。晉中宗初渡江,更脩飾之。至簡文咸安中,使沙門安法師程造小塔,未及成而亡,弟子僧顯繼而修立。至孝武太元九年,上金相輪及承露。

阿育王はすなわち鉄輪王であり、閻浮提の一天下に王となった。仏が滅度した後、一日一夜のうちに鬼神を使って八万四千の塔を造ったが、これはその一つである。呉の時、尼がその地に住んで小さな精舎を作ったが、孫綝がほどなくこれを毀し除き、塔も同じく失われた。呉が平定された後、道人たちが再び旧い所に建て立てた。晋の中宗がはじめて江を渡ってきたとき、さらにこれを修め飾った。簡文帝の咸安年間、沙門の安法師に道で小さな塔を造らせたが、成らないうちに亡くなったので、弟子の僧顕が継いで修め立てた。孝武帝の太元九年に至って、金の相輪と承露を上げた。

14慧達が見つけた舎利

其後西河離石縣有胡人劉薩何遇疾暴亡,而心下猶暖,其家未敢便殯,經十日更蘇。說云:「有兩吏見錄,向西北行,不測遠近,至十八地獄,隨報重輕,受諸楚毒。見觀世音語云:『汝緣未盡,若得活,可作沙門。洛下、齊城、丹陽、會稽並有阿育王塔,可往禮拜。若壽終,則不墮地獄。』語竟,如墮高岩,忽然醒寤。」因此出家,名慧達。遊行禮塔,次至丹陽,未知塔處,乃登越城四望,見長千里有異氣色,因就禮拜,果是阿育王塔所,屢放光明。由是定知必有舍利,乃集衆就掘之,入一丈,得三石碑,並長六尺。中一碑有鐵函,函中有銀函,函中又有金函,盛三舍利及爪髮各一枚,髮長數尺。卽遷舍利近北,對簡文所造塔西,造一層塔。十六年,又使沙門僧尚伽爲三層,卽高祖所開者也。初穿土四尺,得龍窟及昔人所舍金銀鐶釧釵鑷等諸雜寶物。可深九尺許,方至石磉,磉下有石函,函內有鐵壺,以盛銀坩,坩內有金鏤罌,盛三舍利,如粟粒大,圓正光潔。

その後、西河の離石県に劉薩何という胡人がいて、病にかかって急に亡くなったが、心の下がなお暖かかったので、その家ではすぐに殯することをあえてせず、十日を経てまた蘇った。その言うところでは、「二人の吏が来て捕らえ、西北へ向かって行き、遠いか近いかも測れぬまま十八の地獄に至った。報いの重さ軽さに従って、さまざまな苦しみを受けていた。観世音にお会いしたところ、告げて言われた。『お前の縁はまだ尽きていない。もし生きられたなら、沙門になるがよい。洛下・斉城・丹陽・会稽にはいずれも阿育王の塔がある。行って礼拝するがよい。そうすれば寿命が終わっても地獄には落ちない。』言葉が終わると、高い岩から落ちるようであって、たちまち目が覚めた」という。これによって出家し、名を慧達とした。めぐり歩いて塔を礼拝し、次に丹陽に至ったが、塔のある所を知らなかったので、越城に登って四方を望むと、長干の里に異なる気色があるのを見た。そこで行って礼拝すると、はたして阿育王の塔のあった所で、しばしば光を放った。これによって必ず舎利があると定めて知り、衆を集めてこれを掘ったところ、一丈入って三つの石碑を得たが、いずれも長さ六尺であった。中の一つの碑に鉄の函があり、函の中に銀の函、函の中にまた金の函があって、三つの舎利と爪・髪をそれぞれ一枚ずつ納めており、髪の長さは数尺であった。そこで舎利を北寄りに移し、簡文帝が造った塔の西に向かい合わせて、一層の塔を造った。十六年、また沙門の僧尚伽に三層とさせたが、これが高祖の開いたものである。はじめ土を四尺掘って、竜の窟と、昔の人が施した金銀の輪・釧・釵・鑷などさまざまな宝物を得た。九尺ほどの深さに至って、ようやく石の磉に当たり、磉の下に石の函があって、函の内に鉄の壺があり、それに銀の坩を納め、坩の内に金を鏤めた罌があって、三つの舎利を納めていた。粟の粒ほどの大きさで、丸く正しく、光り清らかであった。

15長干寺の舎利

函內又有琉璃碗,內得四舍利及髮爪,爪有四枚,並爲沉香色。至其月二十七日,高祖又到寺禮拜,設無导大會,大赦天下。是日,以金缽盛水泛舍利,其最小者隱缽不出,高祖禮數十拜,舍利乃於缽內放光,旋回久之,乃當缽中而止。高祖問大僧正慧念:「今日見不可思議事不?」慧念答曰:「法身常住,湛然不動。」高祖曰:「弟子欲請一舍利還臺供養。」至九月五日,又於寺設無导大會,遣皇太子王侯朝貴等奉迎。是日,風景明和,京師傾屬,觀者百數十萬人。所設金銀供具等物,並留寺供養,並施錢一千萬爲寺基業。至四年九月十五日,高祖又至寺設無导大會,豎二刹,各以金罌,次玉罌,重盛舍利及爪髮,內七寶塔中。又以石函盛寶塔,分入兩刹下,及王侯妃主百姓富室所舍金、銀、鐶、釧等珍寶充積。

函の内にはまた琉璃の碗があり、その内に四つの舎利と髪・爪を得た。爪は四枚あって、いずれも沈香の色であった。その月の二十七日、高祖はまた寺に至って礼拝し、無导大会を設け、天下に大赦を下した。この日、金の鉢に水を盛って舎利を浮かべたところ、その最も小さいものが鉢に隠れて出なかったので、高祖が数十拝すると、舎利はそこで鉢の内に光を放ち、長くめぐり回って、鉢の真ん中に当たって止まった。高祖は大僧正の慧念に「今日、不可思議の事を見たか」と問うた。慧念は「法身は常に住し、湛然として動きません」と答えた。高祖は「弟子は舎利一つを請い、台に還して供養したい」と言った。九月五日に至って、また寺で無导大会を設け、皇太子・王侯・朝廷の貴人らを遣わして奉じ迎えさせた。この日、風も日ざしも明るく和らぎ、都はこぞって押し寄せ、見る者は百数十万人であった。設けた金銀の供具などの物は、みな寺に留めて供養し、あわせて銭一千万を施して寺の基業とした。四年九月十五日に至って、高祖はまた寺に至って無导大会を設け、二つの刹を立て、それぞれ金の罌に、次に玉の罌を重ねて舎利と爪・髪を盛り、七宝の塔の中に納めた。また石の函に宝塔を盛り、分けて二つの刹の下に入れたが、王侯・妃主や民間の富んだ家が施した金・銀・輪・釧などの珍宝が満ち積まれた。

16般若経の放光

十一年十一月二日,寺僧又請高祖于寺發《般若經》題,爾夕二塔俱放光明,敕鎮東將軍邵陵王綸制寺《大功德碑》文。

十一年十一月二日、寺の僧がまた高祖を請い、寺で『般若経』の題を説き起こさせたが、その夕べ、二つの塔がともに光を放った。勅して鎮東将軍・邵陵王の綸に、寺の『大功徳碑』の文を作らせた。

17鄮県の塔

先是,二年,改造會稽鄮縣塔,開舊塔出舍利,遣光宅寺釋敬脫等四僧及舍人孫照暫迎還台,高祖禮拜竟,卽送還縣,入新塔下,此縣塔亦是劉薩何所得也。

これより先、二年、会稽の鄮県の塔を改め造り、旧い塔を開いて舎利を取り出し、光宅寺の釈敬脱ら四人の僧と舎人の孫照を遣わして、しばらく台に迎え還した。高祖が礼拝を終えると、すぐに県に送り還して、新しい塔の下に納めた。この県の塔も劉薩何が見つけたものである。

18長干寺の金の像

晉咸和中,丹陽尹高悝行至張侯橋,見浦中五色光長數尺,不知何怪,乃令人於光處掊視之,得金像,未有光趺。悝乃下車,載像還,至長幹巷首,牛不肯進,悝乃令馭人任牛所之。牛徑牽車至寺,悝因留像付寺僧。每至中夜,常放光明,又聞空中有金石之響。經一歲,捕魚人張係世,於海口忽見有銅花趺浮出水上,係世取送縣,縣以送臺,乃施像足,宛然合。會簡文咸安元年,交州合浦人董宗之采珠沒水,於底得佛光豔,交州押送臺,以施像,又合焉。自咸和中得像,至咸安初,歷三十餘年,光趺始具。

晋の咸和年間、丹陽尹の高悝が張侯橋まで行ったとき、浦の中に五色の光が数尺も伸びているのを見た。何の怪しみかわからず、そこで人に光のある所を掘り見させたところ、金の像を得たが、光背と台座がなかった。悝は車を下りて像を載せて還ったが、長干の巷の入口に至ると牛が進もうとしなかったので、悝は馭者に牛の行くままに任せさせた。牛はまっすぐ車を引いて寺に至った。悝はそこで像を寺の僧に預け留めた。夜半になるごとに、いつも光を放ち、また空中に金石の響きが聞こえた。一年を経て、魚を捕る張係世が、海の口でふと銅の花の台座が水の上に浮かび出たのを見て、取って県に送り、県はこれを台に送った。そこで像の足に施してみると、ぴたりと合った。ちょうど簡文帝の咸安元年、交州合浦の人、董宗之が真珠を採って水に潜り、底で仏の光背を得たので、交州はこれを台に押し送り、像に施すと、これもまた合った。咸和年間に像を得てから咸安の初めまで、三十余年を経て、光背と台座がはじめて具わった。

19五人の胡僧と仏像

初,高悝得像後,西域胡僧五人來詣悝,曰:「昔於天竺得阿育王造像,來至鄴下,值胡亂,埋像于河邊,今尋覔失所。」五人嘗一夜俱夢見像曰:「已出江東,爲高悝所得。」悝乃送此五僧至寺,見像噓欷涕泣,像便放光,照燭殿宇。又瓦官寺慧邃欲模寫像形,寺主僧尚慮虧損金色,謂邃曰:「若能令像放光,回身西向,乃可相許。」慧邃便懇到拜請,其夜像卽轉坐放光,回身西向,明旦便許模之。像趺先有外國書,莫有識者,後有三藏𨚗求跋摩識之,云是阿育王爲第四女所造也。及大同中,出舊塔舍利,敕市寺側數百家宅地,以廣寺域,造諸堂殿並瑞像周回閤等,窮於輪奐焉。其圖諸經變,並吳人張繇運手。繇丹青之工,一時冠絕。

はじめ、高悝が像を得た後、西域の胡僧五人が悝のもとに来て言った。「昔、天竺で阿育王が造った像を得て鄴下まで来ましたが、胡の乱に遭い、像を河のほとりに埋めました。今、尋ねておりますが、その場所を失いました。」五人はかつて一夜、ともに夢に像を見て、「すでに江東に出て、高悝の得るところとなった」と告げられたという。悝はそこでこの五人の僧を寺に送った。像を見ると嘆き泣いて涙を流したが、像はそのまま光を放って殿宇を照らした。また瓦官寺の慧邃が像の形を模して写そうとしたが、寺主の僧尚は金の色を損なうことを憂え、邃に「もし像に光を放たせ、身をめぐらせて西に向かせることができたなら、許してやろう」と言った。慧邃はそこで懇ろに拝して請うたところ、その夜、像はすぐに座をめぐらせて光を放ち、身をめぐらせて西に向いたので、翌朝、模すことを許した。像の台座にはもとから外国の書があって、識る者がなかったが、後に三蔵の𨚗求跋摩がこれを識って、阿育王が第四の娘のために造ったものであると言った。大同年間になって、旧い塔の舎利を取り出し、勅して寺の側の数百家の宅地を買い、寺の域を広げ、諸々の堂殿や瑞像・周回の閣などを造ったが、その美しさは極まった。諸々の経の変相を図いたのは、みな呉の人、張繇の手の運びである。繇の丹青の工は、一時に冠絶していた。