武興国武興國
1仇池から武興まで
武興國,本仇池。楊難當自立爲秦王,宋文帝遣裴方明討之,難當奔魏。其兄子文德又聚衆茄盧,宋因授以爵位,魏又攻之,文德奔漢中。從弟僧嗣又自立,復戍茄盧。卒,文德弟文度立,以弟文洪爲白水太守,屯武興,宋世以爲武都王。武興之國,自於此矣。難當族弟廣香又攻殺文度,自立爲陰平王、茄盧鎮主。卒,子炅立;炅死,子崇祖立;崇祖死,子孟孫立。齊永明中,魏氏南梁州刺史、仇池公楊靈珍據泥功山歸款,齊世以靈珍爲北梁州刺史、仇池公。文洪死,以族人集始爲北秦州刺史、武都王。天監初,以集始爲使持節、都督秦、雍二州諸軍事、輔國將軍、平羌校尉、北秦州刺史、武都王,靈珍爲冠軍將軍,孟孫爲假節、督沙州刺史、陰平王。集始死,子紹先襲爵位。二年,以靈珍爲持節、督隴右諸軍事、左將軍、北梁州刺史、仇池王。十年,孟孫死,詔贈安沙將軍、北雍州刺史。子定襲封爵。紹先死,子智慧立。大同元年,剋復漢中,智慧遣使上表,求率四千戶歸國,詔許焉,卽以爲東益州。
武興国は、もとは仇池である。楊難当が自ら立って秦王となったので、宋の文帝が裴方明を遣わしてこれを討たせると、難当は魏へ逃げた。その兄の子の文徳がまた茄盧に衆を聚めたので、宋はそれによって爵位を授けたが、魏がまたこれを攻めたので、文徳は漢中へ逃げた。従弟の僧嗣がまた自ら立って、再び茄盧に戍った。卒して、文徳の弟の文度が立ち、弟の文洪を白水太守として武興に屯させたので、宋の世にこれを武都王とした。武興の国は、ここから始まるのである。難当の族弟の広香がまた文度を攻め殺して、自ら立って陰平王・茄盧鎮主となった。卒して、子の炅が立ち、炅が死に、子の崇祖が立ち、崇祖が死に、子の孟孫が立った。斉の永明年間、魏氏の南梁州刺史・仇池公の楊霊珍が泥功山に拠って帰順したので、斉の世に霊珍を北梁州刺史・仇池公とした。文洪が死ぬと、族人の集始を北秦州刺史・武都王とした。天監の初め、集始を使持節・都督秦雍二州諸軍事・輔国将軍・平羌校尉・北秦州刺史・武都王とし、霊珍を冠軍将軍とし、孟孫を仮節・督沙州刺史・陰平王とした。集始が死に、子の紹先が爵位を襲った。二年、霊珍を持節・督隴右諸軍事・左将軍・北梁州刺史・仇池王とした。十年、孟孫が死んだので、詔して安沙将軍・北雍州刺史を贈り、子の定が封爵を襲った。紹先が死に、子の智慧が立った。大同元年、漢中を剋ち復したとき、智慧が使者を遣わして表を上げ、四千戸を率いて国に帰ることを求めたので、詔してこれを許し、そのままこれを東益州とした。
2武興の地と風俗
其國東連秦嶺,西接宕昌,去宕昌八百里,南去漢中四百里,北去岐州三百里,東去長安九百里。本有十萬戶,世世分減。其大姓有符氏、薑氏。言語與中國同。著烏皁突騎帽、長身小袖袍、小口袴、皮靴。地植九穀。婚姻備六禮。知書疏。種桑麻。出紬、絹、精布、漆、蠟、椒等。山出銅鐵。
その国は東は秦嶺に連なり、西は宕昌に接して、宕昌から八百里、南は漢中から四百里、北は岐州から三百里、東は長安から九百里である。もとは十万戸あったが、代々分かれて減った。その大きな姓に符氏と薑氏がある。言葉は中国と同じである。烏い皁の突騎帽、長い身で小袖の袍、小口の袴、皮の靴を着ける。地には九つの穀を植える。婚姻には六礼を備える。書や疏を知っている。桑と麻を種える。紬・絹・精い布・漆・蠟・椒などを産し、山から銅と鉄を出す。